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バカは次々わいて出る

いろんな情報が入り乱れて、気分がハイになったり落ちこんだり不安定になってるので、お許しを。

『派遣社員あすみの家計簿』、私まだ2と3しか読んでない。本屋になくて注文中の1では、ヒロインはまだかなり世間知らずの甘ちゃんらしく、だんだん成長してきたらしいから、最初の様子がわからないんだけど、ネットの感想にある、「主人公の金銭感覚が甘すぎる」「貧乏なのに贅沢すぎて、自分とはまるでちがう」みたいな意見の数々を見ると、えーそーなのと思ってしまう。

この主人公のお金はないけど、自分にご褒美とか、先のための投資とか、そういう感覚の浪費とか消費とかのしかたが、私とすっごくよく似てるのだ。そういう長い目で見て無茶をする、一見理屈に合わないけど実は周到な計算してる買い物って、多くの人には理解してもらえないものなのかもしれないなあ。でも、そういう刺激やら活性化やらが、ものすごく生きる力を生むことだってあるのだよ。どよーんと安定して無難に生きていると、心の筋肉が落ちて、みるみる貧弱になってくる。
まあ、このへんの感覚と計算は、難しいんだけどねえ、それはたしかに。

昨日買ってきた、薄紫のたった三本のスイートピーが、部屋全体を活気づけて、やる気を出させてくれるのなんかもさ。
もうね、この年になると若いときみたいに、歯をくいしばって嫌なことでもノルマを果たすということが絶対できない。自分をだまして、ごきげんとって、ノセにノセて働かせるしかないんだもんねー。

昨日の夕方ぼけっとラジオの国会中継を聞いてたら、共産党の山添拓さんが、首相の先制攻撃も可能という見解について、いつ政府の方針が変わったのかと、鋭く細かく厳しく追求していた。中身も滑舌も切れ味よくて、力がこもって、ずっと引き付けられて聞いていた。
「日本を戦争できる国にするという、この方針の大転換を、いいかげんに決めてしまうのは許されない」という山添議員の見解はもっともすぎて、それに何一つ論理的に答えられない首相や外相の答弁が、いつものことなのに、あらためて大変恐ろしかった。

私は正月頃だっけ(去年のクリスマスごろだった)、自衛隊の行事かなんかで首相がさらっと、「先制攻撃もあり得る」とか言ったのに、耳がウサギのようにおったって(そう言えば今日はウサギの日なんだそうな)何でマスメディアも野党も世間も大騒ぎしないのかと、そのへんを走り回りたくなったのだが、今頃あちこちで問題になってるのも腹がたつ。しかし、とにかくこうやって、すごく大事なことを、ずるっと決めて既成事実にして行こうという、この政府のやり方が、危険すぎて見てらんないのだよね。

『戦場の希望の図書館』を読み終えた。今読むと、どうしてもウクライナの状況と重なって、ものすごく苦しい。『テヘランでロリータを読む』なんかでもそうだが(もっとも私は読書会というのは、そう好きではなくて、読書はあくまでも孤独で作品と向いあうものだと思ってるから、自分の本を読書会で読んだという人たちの話を聞くと、まず思うのは「臆病者!」だし、そんな読書会の参加者って、よってたかってステージの大股開きの私の陰部をのぞきこんでる場末のストリップ小屋の客しか連想できないのだが、まあそんなことはどーでもいい)、読書がいかに人を救うかということも、もちろんびしびし伝わるし、たとえば欧米では家族や恋愛の手引として読まれがちな、精神的なハウツーものが、爆撃下の都市で生き抜く若者たちにすごく好まれ助けになるという思いがけない事実も新鮮だ。

しかし、瓦礫の中から本を救い、図書館を作り、それによって救われ育てられるという若者たちのみずみずしさ、力強さとも重なって、もう否応なしに伝わるのは、封鎖され爆撃されつづけて、結局は滅ぼされて消えた一つの都市の姿だ。私はアサド政権の独裁について何も知らなかったし、この都市ダラヤの名も知らなかった。そこで暮らし、追いつめられ、苦しみつづける人たちの日々がどんなものなのかも。暴力に訴えず、テロには否定的で、あくまで平和を願い、求めつづける若者たちがこうやって確実に存在しているということも。日々の絶え間ない爆撃、世界の無関心と無視の中で、いつまでも続く恐怖の日々。ウクライナもそうだが、世界のこういう場所について、私たちは決して知らないでいてはいけないと思う。

今村夏子『星の子』も読んだ。映画にもなるらしい。原作はなかなかそこはかとなくいろいろ恐かったが、映画はどうなってるのかな。
全然ちがうのだが、変に連想したのが、子どものころ読んだ『森の兄弟』だった。リトアニアだっけの田舎に暮らす八人ぐらいの兄弟の話だが、彼らは都会の人たちが「食事の後でさじをきれいになめておくことも知らない」とバカにしていて、子どもの私は、何だかおかしい気もしながら、その価値観を受け入れて、それが当然と思っていたのだっけ。

ネットで見ていると、ウクライナのことで、「戦うのが男らしい」「男性的な闘争性が必要」みたいな意見や感想が出ているみたい。何つうかもう、バカってほんとに次々わいて出てくるよなあ。「それ言うならプーチンのやり方は一番男性的だろうが」と、さくっと反論されてたけど。

私の方は、およそそれとは逆に、ウクライナでは18歳から60歳までの男性は、戦闘員として必要になるかも知れないから出国してはいけないということになっているとのニュースに、あらためて肌に粟を生じている。これについて私の見る限りネットでは何のコメントも誰もしていないようだが、ただ男だというだけで、問答無用に人を殺して自分も死ぬかもしれない仕事をわりあてられるなんて、こんな差別と理不尽がまかり通るのだろうか。そしてそれを疑問に思わない人は世界に一人もいないのだろうか。

私が男なら、こんな運命も人生も許せない。それを黙認している女性たちも信じられない。そんな常識に甘んじて、平気で戦う役割を男性に押しつけて平気でいる女性たちなんか、未来永劫、お茶くみと慰安婦してろとののしりたくなる。実際そういうものではなかろうか。人を殺し、自分も死ぬ役割を他の性に押しつけて、恥とも罪とも思わない人間たちに、何を要求する権利があるというのだろう。

ところで、ここでも紹介した私の昔の絵日記は、とても好きだと言って下さる人がいて、さしあげることにした。最近こうやって、いろんなものを、自分から切り離して、世界や未来に放流していく快感を感じはじめている。自分で最後まで守れるもの以外は、どんどん遠くに送り出したい。
問題は、そうやっても全然荷物が減らないように見えることなんだけど(笑)。んー。

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カツジ猫