映画「ナチス 偽りの楽園」10-映画「風立ちぬ」感想(おまけの4)

◇五木さんはチリのアジェンデ政権崩壊を描いた「戒厳令の夜」なんかで、しっかりと民主政権を崩壊させたアメリカの役割なども描いている。そういう点では発言をしているかもしれない。でも、たとえば今回の宮崎監督のような、また「九条の会」を結成して平和憲法を守ろうと呼びかけた、加藤周一、井上ひさし、大江健三郎のような、はっきりとした発言をされることは、これまではなかった。これからも多分ないんじゃないだろうか、決めつけちゃって悪いけど。

私はそう怒ってるわけでもない。「やっぱりな」とさえ思ってはいない。あの発言を最初に聞いたときからして私はすでに(時代の寵児だった五木氏に対する、私のあまのじゃく的反感を勘定に入れといていただきたいが)、「え、何さまよ、カッコつけて。自分みたいな大物は、『わー、あの五木さんが!』という最大のショックと効果を生むまで意見は言わないってかい。せめて黙ってろよ、わざわざ口にするなんてアホかい」とか、まあいろいろなことを思ったのだが(くりかえすけど、その頃は私がこんなこと思ったって、ブスな娘がAKB48にたてつく以上に、五木さんには痛くもかゆくもなかったはずです。あ、今だってそうだろうけど)、その中には「わざわざそんなことを口にする」五木氏の善意や無器用な素朴さも感じて、微笑ましかったのも少しはたしかにある。

◇そうこうしてる内に、多分五木さん以上に作家や知識人としては大御所の加藤さんや大江さんが、あれだけ明確に「九条の会」まで作っちゃったりして、私はいよいよ「五木さん、あんた、いつ何を言うんだよ、出遅れただろ完全に。もう出番ないやろ」などと意地悪なことはちっとも考えないで(笑)、むしろ、あの「九条の会」設立の時、私がものすごーーーいショックで、正直日本もひょっとして世界ももうだめかもしれんと心の底から思ったのは、あれだけのすごい日本の知性を代表する人たちが呼びかけた「九条の会」設立が、私なら新聞の第一面ぶちぬきのニュースが当然と思うのに、どの新聞も三面記事のそれも下段の小さなゴミ記事だったことだ。

大変な人気があり影響力のある作家が、何かどうしてもやむにやまれぬことで自分のキャリアや仕事を犠牲にしても、命と心をかけて発信したことばが、これだけ世間に、読者に、マスメディアに黙殺される。私は五木さんが多分恐れていて、そんなことにならないように、まだまだ自分の存在を大きくしてから、ちゃんと世の中を動かせるようにしてから、発言したい、行動したいと感じていた…かもしれないということを、「九条の会」の設立されたあの時に、ものすごく実感した。妄想かもしれないんだけど(笑)。

◇私が高校生のころ、アルジェリアの独立運動の中で、アルジェリアの女子学生ジャミラ・ブーパシャがフランスの警察か軍隊に拷問されビール瓶でレイプされるという事件が起こって、フランスの知識人たちが抗議行動と裁判を起こした。それが「ジャミラよ朝は近い」という本になった。私はそれを読んだとき、実は最も心をゆさぶられたのが、各界の人たち、中には軍の関係者もいたが、その人たちがためらい、迷いながらも断固として、その抗議行動を支持するメッセージをよせている、その内容だった。
私は他と比べてそれほどでもなかったが、当時のフランスで、そして日本でも、それらのメッセージの中で大きな感動を呼び、影響を与えたのは、「十代の恋愛小説しか書かないと思われていた」フランソワーズ・サガンのメッセージだった。彼女は「自分はこんなことはなじまない」みたいなことを言いつつも、明確にこれ以上はないほど明確に、自分の意志を明らかにして、抗議行動を支持している。

せめて、あのくらいの影響力は持ちたい、と五木さんなら思うだろう。
そして、そのためには、「あのサガンが!?」と驚かれるほど、それまではそんなこととは無縁の人のように活動していなければ、いまいち効果は薄いだろう、とも思うだろう。

私は、ことあるたびに、呼吸のように、そのような政治的発言をしてきた、しかもすぐれた作品を生み出しつづけた作家たちや学者たちを思う。開高健、手塚治虫、ピカソ、オリバー・ストーン、そして宮崎駿もか。その一方で、すぐれた巨大で繊細な精神世界を持ちながら、いっさいそういう発言を直接にはしない作家や芸術家のことを思う。まあ、江国香織とか橋本治とか林真理子とか、あっという間にすごい人たちがいっぱい思い浮かぶんだけどさ(笑)。
彼らは「ナチス 偽りの楽園」のゲロンや、「風立ちぬ」の二郎とどこまで似ているのだろう。これまでも、これからも。

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カツジ猫