映画「ナチス 偽りの楽園」11-映画「風立ちぬ」感想(おまけの5)

◇まあさ、つけ加えるならさ、サガンの発言に、きちんとそれだけ衝撃受けて評価もした当時のフランス言論界と、ノーベル賞作家の発言さえもほとんど無視してバカにした昨今の日本の社会との、やな言葉だけど文化のちがいか民度のちがいか、国に関係なく時代の変化か、そこのところもあるんだろうけどさ。

◇それと、とりとめもなく、いろいろ思うわけなんだけど、私は昔から映画館でも屋台でも飲み屋でも、女一人でぶらっと入って、全然そもそも気にもしたことなかったんだけど、人によっては、それもやはり訓練や決意がいるらしくて、つまり、こういう政治的発言や社会的発言って言うのは、ふだんから普通にしてたら、別にまったくどうってことはないんだけど、やっぱりこれも練習や慣れみたいなもんで、相当めちゃくちゃ偉大な思想家や作家や芸術家や学者でも、それなりの練習をしてない人は、やっぱり相当構えてしまうのかもしれない。

五木さんのようなことを考えていると、皆に期待されて注目されて、そこでいよいよする発言は、よっぽどすごいものでなければならないわけで、気を持たせている間にどんどんハードル高くなるっていう、よくある図式にもなるんだろう。
リンクしてる「北窓書屋」の管理人さんが、しばらくブログを書かないとどんどん書きにくくなる心境について、「論文が書けない大学院生」の例を引きつつ話されてるが、あれと共通するとこもあるような。

◇その一方で私なんかも、もろそうなのだが、そういうハードルが低いっつうか、むしろない人は、それこそ麻生さんもどきの、とんでもない歴史観やら人生観やら男女観やら世界観やらで、「ちょっともう、いくら何でも、もうちょっと基礎の勉強してから来い」みたいなことを、ぺらっと言ってしまったりする。
たとえば金もうけとか、たとえば物作りとか、政治や社会と特別な関わりもなく何も考えないままに生きて来て、とにかく有名人になり責任ある発言をしなくてはならなくなったときに、何を言わなきゃならないかっていうのは、案外、相当むずかしい。

私は北野武、そのかみのビートたけしは、はじめから嫌いなタレントだが、ただ、有名になってカリスマになってからの彼の発言やなんかは、その点で巧みにバランスをとってて、へまはしないなと思ったりする。それは石原都知事もそうだが、野にいて反逆してというか、好きなことしてるのはともかく(その場合でも私は多分、その芸風は好きじゃないが)、人の上に立つとか支配者になるのは絶対にやめた方がいい人たちというのがいて、そういう人がたまたま人を支配するような位置に祭り上げられてしまうと、本音と建前の使い分けは相当技術がいるだろうなと痛感する。

◇私自身も、たいがいいろんな発言をしまくってるが、実は昔の高校だから、日本の近代史もまともに勉強してはいないし、基礎知識がゼロに近い。それでも平気でぺらぺら何でも言ってるのは、国連でも世界でも通用する理屈と感覚で日常を生きてるという、妙な自信があるからだ。しかしまあ、それにしても、危ない橋を渡っているという実感は日夜忘れたことがない。その恐怖にたえながら、毎日しゃべっているのである。ほんともう、誰にたのまれたわけでもないのにさ(笑)。

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カツジ猫