映画「ナチス 偽りの楽園」6-映画「ナチス 偽りの楽園」と「風立ちぬ」感想(一応これでおしまい?)
◇こういうことについて、人の折り目のつけ方は、きっといろいろなのだろう。友人のキャラママは、原発も憲法もどうなろうと気にもしないで、自分の勉強だけに打ちこんでいられたら、どんなに幸福だろうと嘆いている。集会に行き、デモに行き、行動するだけのことではない、世の中の動きに悲しんだり怒ったり、自分はまちがっていないかと考えたりするだけで、心が乱され時間が取られる。それは耐えがたい苦痛だと彼女は言う。
それでも彼女が、どんなにささやかでも考えたり行動したりすることをやめないのは、「目をつぶって、世の中のことを放っておいたら、いつか頭の上から爆弾が降って来て、結局は勉強を中断しなければならなくなる」のがいやだからだ、と言う。静かな生活を守るために、彼女は静かな生活を犠牲にすることを、いとわない。
◇私の場合はそれに加えて、たとえば自分の書く文章、たとえば自分の語ることばが、世界や人類について考えることをやめた時、未来や他者を愛することをやめた時、どのように変化するかが恐ろしいからだ。そうなった時、確実に私は何かを失うだろう。見えていたものが見えなくなり、どこか小さいところから、確実に着実に、きっと私は変質して行く。残酷になり、冷酷になり、臆病になり、怠惰になり、軽薄になり、愚鈍になる。そうなった時、私は何も生み出せない。人にも何も与えられない。自分のことさえ、好きにはなれまい。
◇だが、実際には、そうすることで、私は自分が生み出せるものを生み出せず、クルト・ゲロンが作ったような偽の楽園映画でさえも、二郎が作ったような、一機も戻って来なかった戦闘機でさえも、作れないまま、残せないまま、一生を終わるのかもしれない。それでいいのかと言われれば、どうかなとはちょっとは思う。
それでもやはり、私は、自分はそういう映画や飛行機は、作りたくないと思ってしまう。それは、ものすごいぜいたくで、ものすごいわがままかもしれない。それでもやはり、そう思う。
◇これはもはや、「風立ちぬ」の映画の感想ですらないのだが(笑)、私はあの映画の二郎という人が、戦争や世界情勢には無関心で、ひたすらに美しい素晴らしい飛行機を作りつづけたことも、愛する女性が命を削って自分を幸福にしてくれたことを、悪びれもせず素直に享受していることも、責めるのではないし、相手の女性も周囲の人々も、そんな彼だからこそ好きだったのだろうが、でも、どこかひどく、欠落した人だと感じるのだ。
決して責めるのではない。「シャーロック」の主人公が言うように「気にするな。大抵の人間はバカなのだから」ではないが、生きがいを見つけ、夢を追い、自分さがしをする人は、おそらく皆ほとんどがこうだろう。世界の人類、未来の人類、身近な家族や友人のすべてを思いやり誠実であろうとしながら、自分の夢を実現させるのなどは、普通の人間にはまず不可能だ。
ううん、だんだん、とりとめもなくなって来るので、感想はひとまず、このへんで終わっておこう。ひょっとすると、また思い出したころに、続きを書くかもしれないが(笑)。