映画「ナチス 偽りの楽園」7-映画「ナチス 偽りの楽園」と「風立ちぬ」感想(おまけの1)
◇この長たらしいタイトルを、そのうちに何とかしないと(笑)。
で、さしあたり、こんなところから始めてみるか。
「風立ちぬ」の宮崎駿監督は、この映画を公開する少し前に「憲法を変えるべきではない」という、かなり長い、きっぱりした発言をした。ネットで見ると、それに怒って「もうファンはやめる」と言ってる人もいたりするから、こういう発言にはやはり決意や勇気が必要なのだろう。
自衛隊を国防軍になどすべきではないというような、この発言の内容はすべて、いちいちもっともだし、わかりやすくて説得力があり、私は共感するし、むしろとてもうれしくもある。
もっとも私が「さすが宮崎駿だな」と、この発言に感心したのは、映画を見る前だったし、韓国で抗議の声があることも知らない時だった。映画を見て、そういう批判もあると知った後では、もしかしたら、この映画を作って公開するにあたっての、ある種の配慮っつうか、バランス感覚もあったのかしら、と、ちらと思わんわけでもない。
それでも、いっこうにかまわない。そうではないかもしれないし、そうであったとしても、それはそれで、きわめて正確な、いい意味で巧妙な戦略だと思うから、私の評価は高まるばかりだ(笑)。
◇だが、そういうことはまったくおいといて、私は今の日本の状況で、宮崎監督のような人が、これだけ明確に自分の意志を述べたということに対して、やっぱり「さすが」と思うし、流行語の「今でしょう!」というせりふは、まさにこういう時のためにあるとも感じる。これだけの人が、これだけの発言を明確にするということ、それはほんとに、今をおいてはないだろうということで、その時にこういう発言があやまたず、はっきりできるということは、やはりこの人はこの人だったのだなあという感慨がある。
さきの、ネットで見た「もうファンをやめる」と怒っていた人は、「そもそも芸術家が、こんな政治的発言をするものではない」というようなことも書いていた。それは私の意見とちがうし、私自身も含めて政治的発言や行動をするのは、芸術活動や生活と切り離しようがないことだと思うが、そう思ってない人もけっこういるようで、まあ「偽りの楽園」のゲロンだって「風立ちぬ」の二郎だって、自分の仕事や芸術と、そういう活動はまったく切り離して生きている。
ただ、彼らの場合、それはそう意識的なものではない。夢中で自分の仕事をしていて、政治にも世の中の動きにも関心がないというのが、むしろ二人のスタイルだろう。こういう人たちは意識して切り離しているわけではないから、何かのはずみやきっかけで、ごく自然に平気で過激な政治的活動だってやりかねないところはある。回りはびっくりするだろうが、多分、本人は自分が変わったとは全然思わず、いつもの仕事や芸術活動の延長上で自然にそういうことを始めるのだろう。
だからきっと、ものすごいかん違いをしてしまうこともあるだろう。先の大戦中に日本の作家たちが、ものすごく戦争礼讃の詩を書いたりしたのも、弾圧が恐かったからというより、情報不足(ついでに言うなら勉強不足)でほんとに立派な戦いをしてると、心から信じていたのだろう。私は自分もそうなるかもしれないと思うし、そういう人たちのとった態度や生んだ作品が、困ったものだとは思うが、そうものすごく嫌悪感は感じない。
そして、それがいいかどうかもまたけっこうな問題とは思うが、たとえば黒澤明が戦時中は、それこそ戦闘機を作ってお国のために滅私奉公する少女を描いた「一番美しく」を作り、戦後は反戦思想をつらぬいた女性を描いた「わが青春に悔いなし」を作って、どっちも名作だし、どっちも監督の姿勢や視点は一貫してるし、だけど主役がやってることは、まっさかさまというすごさ、ほんとに、これで「悔いなし」なのかいと、突っ込みたくもなるものの、やはり、なんかもう、右翼でも左翼でも愛国でも非国民でも、変わらない監督の好みってものはあるのだなあ、としょうもないところで納得しかけてしまうのである(納得してしまってるわけではない)。
ううん、やっぱり、まとまらないなあ。