映画「ナチス 偽りの楽園」4-映画「ナチス 偽りの楽園」と「風立ちぬ」感想
◇前にも書いたように、その収容所では、すぐれた芸術家がそれこそただでいくらでも使えたわけだから、多分その人たちが描いたんじゃないかというスケッチとかが残ってる。もちろん写真もフィルムも残ってる。当時の最高のコメディアンやダンサーや俳優が、惜しげもなく舞台に立って最高の芸を発揮している。
ナチスの所長や看守も見に来て楽しんでいる。
でもそれはほんとに、死と隣り合わせどころか、共存してる舞台なのだ。週に一回、アウシュビッツやどこか、よその収容所に移送される列車が出る。そこに行くのは死を意味する。ナチスは人々を絶望させたら面倒が起こると思ったのか、その前の晩には演芸会をやったそうだ。そして役者やダンサーは、最高の舞台を見せて、皆を楽しませた。
◇私はもう、こうやって書いていても、その状況を思うだけで背筋がぞくぞくして来る。ただただ悲惨で残酷で暗い収容所や牢獄で死んで行くのはもちろんいやだし、他人もそんな目にあわせたくはない。だが、この「偽りの楽園」で、くりひろげられた、最高級の芸術家による最高のパフォーマンスの数々は、それっていったい、何だったのだろう。
私を支配するのは嫌悪感ではない。拒否感ともちがう。限りなく美しい狂気を見せられたときの恐怖と憧憬なのかもしれない。心のどこかで、明日は死の収容所に送られるのでもいいから、そういう最高の舞台を見てみたいと思ったりする。そういうものを永遠に見ないまま、平和に幸福に死ぬ人生の価値をふと、はかりにかける。
はかりにかけられる私はまだ恵まれているし、甘い。彼らには選択の余地はなかった。おそらく、そんな環境で最高の歌や踊りやパフォーマンスを発揮することを、断固として拒否し封印しつづけることもあり得たろうし、そんな人もいたのかもしれない。
だが、さしあたり、彼らは生きのびるためにナチスの要求に応え、死に向かって出発する同胞を少しでも幸福にするために、自分たちの才能を使うことを惜しまなかった。それは正しい戦略であり、人間としての正しい行為だった。だが、そういう口実のもとに、きっとそれ以上に彼らを衝き動かしたものは、踊りたい、歌いたい、演じたい、笑わせたいという欲望だったのではないか…「風立ちぬ」の二郎が、飛行機の設計に自分を捧げずにいられなかったように。
生き残ったひとりの女性は、思い出を話す。ある時、予定していた劇をやろうとしたら、予定していた会場に何かの手違いで死体が山積みされていた。彼らはその死体を、階段に立って、次々に手渡しで送って片づけ、予定通りに劇を上演した。そうまでしてでも、彼らは演じたかったのだ。仲間の死体すら、上演の障害物でしかなかった。おそらく、役者であり表現者である彼らにとって、それが生きていく支えであったし、力の源ともなっていたのだ。そこに欺瞞があり、そこに狂気があったにしても。
そして、彼らのそのようなあり方を、最先端で典型的に体現せざるを得なかったのが、クルト・ゲロンだったのだ。