映画「ナチス 偽りの楽園」1-映画「ナチス 偽りの楽園」と「風立ちぬ」感想

◇感想を書きたくて忙しいまま放っておいたのだが、宮崎駿の新作「風立ちぬ」を見ていて、なぜか強烈にこの映画を思い出してしまった。時代と個人だろうか。悲惨と輝きだろうか。芸術(科学もふくむ)と狂気だろうか。まぶしくて、切なくて、美しくて、恐ろしい。

「風立ちぬ」は、飛行機が大好きで、でも近眼だからパイロットにはなれなくて、飛行機の制作に打ちこんで、美しいすばらしい戦闘機を作った若者の話だ。モデルははっきりいるんだけど、それに小説「風立ちぬ」の世界をからませて、結核で死ぬ美しい妻との生活を描くと言う、もうひとつの筋がある。

この奥さんが結婚前からもう病気なのだが、どう見たってそう見えない、ふっくら健康な美少女なのはもちろん確信犯でやってるんだろう。そんな、まるでアルプスのハイジみたいに丈夫そうな妻が、ほとんどそのまんまの外見で、でも確実に衰えて死に向かって行くのが、どういうか、リアリズムなんかどーでもいいみたいな、昔の映画で美男美女がどんなに貧乏でも乱闘しても髪ひとすじ乱さないみたいな、目の下のクマひとつつけずに「でもこの人重病人で死にかけてるんです、映画がそう言うんだからそうなんです」と強引に宣言してるような、それが逆にうまい具合に夢物語風で、なかなかいい効果をあげている、ほんとに、マジで(笑)。

ネットで見たとこじゃ、この戦闘機作りという主人公の設定は、韓国とかでかなり批判されて、監督がそれに応じて説明したりしているらしい。私はこの映画好きだし、よくできてると思うし、もちろん全然戦争肯定なんかじゃないと思うが、でも、そういう批判が出るのは、これまたよくわかるし、その批判も完全に否定はできない。ただし、映画への批判じゃなくて、この主人公への批判っていう意味だけど、あ、それはやっぱり主人公をこのように描いた映画への批判ってことにもなるのかな。ようわからんまま、続けます。

◇超超ヤボを承知で言うんだけど、監督が韓国で説明したのは、「あの時代、飛行機を作ろうと思えば戦闘機を作るしかなかった」ってことだったようで、そりゃそうなんだろうけど、でも、これは科学者や文学者や芸術家の生き方にも関わって来るんだけどさ、根本的に。
どんなに、飛行機が好きで、作るのが夢で、それが人生で生きがいだったとしても、自分が納得いかない戦争に協力する兵器を作るということになるんだったら、そりゃ歯をくいしばってでも、夢をあきらめ、「悪い時代に生れた」とか思って、戦闘機は作らない、って生き方もそりゃあるよなあ。もうちょい徹底するなら、自分が正しいと思う国に亡命して、そこで、自国を爆撃する戦闘機作りにはげむって選択肢だってあるよなあ。マジで、冗談じゃなく。
若いころの私だったら、絶対その生き方しか考えなかった。敵国でも他国でも関係ない、正しいと思った国に行ってその国のためにつくすと決めてた。人間として。人類として。

まあそんなことは限りなく不可能に近い…かな? けっこうアリかもしれないと今でも私は思うけど、でもソ連に亡命してスパイ扱いされて殺された岡田嘉子さんたちみたいになる心配もものすごくあるし、まあ現実はキビシイわけですよ。
どっちみち、「風立ちぬ」の主人公二郎が、そんな選択肢まったく考えず、それどころか悩みも葛藤もかけらもなく、特高に追いかけられるような理不尽な国の中で、それでも、その国を支えて守る戦闘機作りにせっせと励むというのは、まったく不自然じゃない。ここで変にそういう葛藤とかを描かないでくれて、ほんとにありがたかったと私は思ってる。そんな変な言い訳や免罪符をごちゃごちゃくっつけなかったから、この映画はとてもすっきりしたし、とてもリアルで納得できる。そして結果として、それが「戦争」の実態をものすごくひしひしと感じさせるようにもなっている。

◇それでも、なおかつ、私は韓国で起こったらしい批判はアリだと思う。ていうか、そういう批判を生むこともまた、この映画のすぐれた要素で、もっと言うなら、そういう批判が生れなければいけない映画でもあると思う。そういう議論がなかったら、この映画はきっと完成とは言えない。
夢、自分が最高に愛する生きがい、自分の能力を最大発揮できるもの。それが時代と世界の中で、どう使われて何を生むか。その時にその夢と生きがいを捨てるのか。それは自分を殺すことか。誠実に与えられた仕事をするのか。それは自分を汚すことか。

と、いうわけで、「ナチス 偽りの楽園」の話に入ります。

Twitter Facebook
カツジ猫