映画「ナチス 偽りの楽園」9-映画「風立ちぬ」感想(おまけの3)
◇私が「明日にでも」と書くと、ろくに続いたためしがないなー(笑)。とにかく、ちびちびでも続けます。
◇五木寛之さんは今でも人気ありますが、昔、私の若いころはちょっと硬派で、でもおしゃれな若者たちからとても人気がありました。ほんと時代の寵児って感じの作家でもありました。
私はそんなにファンってほどではなかったけど、それは美空ひばりも吉永小百合も石原裕次郎も嫌いだった私のことだから、むしろあまりにその時代の人気者だったから、よりつく気がしなかったってことも大きいかもしれません。
とは言え、今たとえば、いろんな人気作家のそれなりに時代に関心があって、ちょっと反体制っぽいリベラルな位置にいる人が、別に決してネトウヨと言われるような人たちの攻撃が恐いんではなく、むしろ何とはなしの自己規制なんだろうけど、微妙に中立の姿勢を保って、いわゆる左翼とか共産党とか社民党とか(最近は反原発だか脱原発まで、この中に入ってるような)、こう、明確な立場を取ってる人たちとは、ちょっと自分はちがうんですけど、みたいな書き方や物言いをしてるのを見ると、ふっと、あ、五木さんみたいかな、と思ってしまうことがある。
脇道にそれた不満をまたちょっと言うと、素の発言とかはまだしも、小説でこういう立場で書かれると、得てして明確な立場の人、たとえば共産党議員とか戦争反対してる人とかの描写が、ものすごーく、のっぺらぼうになるのが、読んでてちっとも面白くない。
これは私がどっちかと言うと旗幟鮮明に明確に戦争反対、原発反対の立場だから、同じ意見の人たちの中にも、実にさまざまな人がいて、私自身の中にも、あまりしゃんとはしてない、微妙な要素がいろいろあるのに、そういうのがまるで見えない活動家像、革命家像がしらっと描かれてるからだろうが、だとしたら、多分、キリスト教徒とかイスラム教徒とか、右翼とか、そういう人たちから見ても、こういう小説は、何か相当いらだたしいんではないだろうかと思う。
◇つまり、政治的でも社会的でもいいけど、その作家のそういう姿勢や意見のもとになるものが伝わって来ない。ゆるがせにできない、その人の主義主張や実感がなくて、「何か、今の世の中じゃ、このへんの位置が自分かな」みたいに、周囲の色分け地図見て、自分のスタイルを決めてるような、あやうさつうか、もろさつうか、が常にある。
こういうのの一番やっかいなのは、今の時代もそうかもしれないが、世の中が右傾化でも何化でもいいけど、どっちかにどんどんぶれた時、中立、白紙、無色透明と言いながら、実際にはどんどん強烈な色の方に染まって行っていることに、多分自分で気づかないらしいことだ。
あ、また話がそれ出してるから、本題に戻る。
それが70年安保のときだったか、別の何かのときだったか、もう覚えてないけど、とにかく、政府がまた何かよからぬことしたかして、世の中がちょっと騒然としてた時だったと思う。テレビ番組の対談か何かで、五木さんがインタビューに答えてて、そのときに彼が「まだ自分が発言するときじゃない。けど、いつ発言するかってことは考えてるんだ」みたいなことを、たしか言った。
多分、もうそれから50年近くたつんじゃないかと思うが、私はそのことばを片時も忘れたことがない(笑)。って、ほとんど脅しだな、この言い方って。
言ったご本人はきっと覚えておられるだろう。でもあんなちらっとの間の発言を、今までずっとしつこく覚えてて、何かあるたび、「さあ、まだかよ、いったい、いつかよ」と思ってたような視聴者って、私以外にはきっと、そうはいない。