「水の王子」通信(3)
「水の王子」の第四部を書き上げたのは一九七八年六月三十日です。掛け値なしに四十四年ぶりの続編ということになります。書きはじめると一気で、ほとんど四月いっぱいのひと月で書いてしまったのですが、その間私は四部までを読み返すことはほぼ一度もなかったです。人の名前はもちろん、人間関係も時間関係も何もかも全部覚えていて、記憶をたどる必要さえありませんでした。
この四十年、何度か続編を書こうとしたことはあります。覚えているだけでも数回で、一度は一応完成しました。登場人物も今回完成した最終稿よりはるかに多く、筋も複雑で壮大で錯綜しています。でも、書いてしまってからも何となく「これじゃないなあ」と思っていました。だから人にも見せていないし、今回すべて処分しました。だって、ひょっとして、将来これだけ残ってしまったら、それこそ泣いても泣ききれない(笑)。
でも、そういう試みを何度かしていたから、物語の全容は常に把握していたと言えるかもしれません。いつも考えていたということは全然なく、何かの折りに、とにかくこれを仕上げないと前に進めないなあと思って、ちょっととりかかって見るという感じでしたが、そのたびに人物表だの村の地図だの構成や伏線などを少しずつ作ったり消したりしていました。
具体的には去年からちょっと体調を崩し、これこそ死ぬまでに仕上げとかなくてはならない専門の研究分野の仕事にとりかからないと大変だと思ったのですが、一方でそれにかかる体力はまだ回復していないと見て、リハビリをかねて、庭いじりや家族の手紙などの整理や家の片付けをぼちぼちしていました。
その中で「水の王子」の下書きに使っていた古いファイルが見つかりました。昔の事務所にもありそうな古色蒼然ぶりが変に気に入って、それ用のルーズリーフを少し買い込んでいたこともあり、片付けをかねて、これに書いて行ってみようかなと、書き出してみたら、とまらなくなりました。
実はもう何十年も「むなかた九条の会」で憲法や政治や社会について同じ志の皆さんといろんな活動をしていました。それも体調不良のために、去年からすっかり手を引いて引退させてもらいました。
体力が戻れば、またできる協力はしたいし、これまでそういった活動に費やした時間やその他についての後悔はまったくありません。「平成は守った」という、ささやかな自負もあります。このホームページの「川っぷちの小屋」コーナーに、そういった関係の文章がありますので、ごらん下さい。
ただ、今回私が第五部「村に」を書き上げられたのは、たしかに、こういった活動をやめたためにできた時間その他の余裕があったからです。それは絶対に否めない。
あらためて思うのは、日本の政治の、とりわけ自公政権の腐敗と堕落が及ぼす被害の巨大さと底深さです。私などとは比べ物にもならない偉大な学者や芸術家が、「九条の会」をはじめとした市民運動や平和運動で時間を費やし、各自の専門の仕事に打ち込めなかったことで生ずる被害の大きさ、進められなかった研究、作り上げられなかった作品に対する、国民どころか人類に生ずる被害の甚大さに、自分の仕事をきちんと果たさず私欲や利権にうつつを抜かした政治家たちは、どう責任を取るつもりなのか。その罪深さを彼らはまったく理解していないのでしょう。
そういう政治的社会的活動をまったくしないで、自分の研究や創作に専念する学者や芸術家を責める気にはまったくなれません。いつ世界で戦争が起こり頭上に爆弾が降るかもしれない危険を無視して、自分の仕事に打ち込むことは危険な賭けですが自衛手段でもあるでしょう。
また私自身がそうであったように、研究でも創作でも、そういった活動が思いがけない視点や発想や能力を生むことも馬鹿にはできません。私に限って言うならば、もしそういう活動を何もしないで仕事に打ち込んだとしても、結局はそういうことに触れないで目をつぶって生きただけのものしか生み出すことはできなかったでしょう。
ともあれ、しかし、具体的には、そうやって体調不良が生み出した時間の余裕が、第五部「村に」を書けた、最大の理由だったかもしれません。自由な時間と最低限の収入と私を放置してくれて孤独を確保してくれた友人知人たちの存在も、本当に貴重でした。
四月のひと月、時間があれば、「村に」を書いていました。大筋はほぼ決まっていましたし、書いていると筆がとまることは一瞬もありませんでした。時間が惜しくなると近くの気に入った店の数軒をわたり歩いて食事をしては数時間ねばって書き続ける毎日でした。その手書きの原稿を見ると、ほとんどと言っていいぐらい書き直しもありません。ときどき睡魔に勝てなくなってペン先がすべって汚した後が見えるぐらいです。次々に浮かぶことばを書きつけるのに急ぎすぎて間に合わなくて、文字も乱れっぱなしでした。
私はこうして手書きで下書きした原稿は、データ化してパソコンに打ち込むとき、あちこち添削や補充をして、それも楽しいのですが、今回は一文字も変えないでいいと書いているときから思っていたし、最終段階で筋などは変えずに表現などで少し手を入れた以外は、まったく変更しませんでした。一番大きな変更はラストに近いヒルコの幻想部分で、これは冗談が過ぎるとお叱りを受けるかもしれないけれど、いろんな意味で確信犯です(笑)。それについては、またあらためて。
今回、電子書籍での自費出版になるだろうこともあり、私はこの手書き原稿の味わいを、とことん残すことにしています。すなわち、仮名遣いや送り仮名の不統一、などなどの表記の乱れはいっさい修正しません。
最近は出版社でも校正とか校閲とかがやたらに厳しく、一般の読者の方でも、それを気にしてチェックされる方が多いようです。お気持ちはありがたいですが、それが気になってこの作品を楽しめないなら、あきらめていただくしかありません。このような表記の乱れや不統一も、この作品の一部と私は判断しています。この乱れがあるからこそ、勢いも熱気も生まれていて、それを消したくありません。
不統一と言うならば、登場人物の一人称「俺」「僕」「私」「あたし」なども今回一定していません。たがいの敬語や口調も場面ごとにゆれています。これを気にして指摘する人もおられるかもしれませんが、私はこの両方とも実はものすごく気にして書く作家(おほほ)です。だから、この不統一も乱れも確信犯です。
ある程度はいつもあることですが、今回は特に登場人物と私は一体化していました。彼らの口にすることばはすべてひとりでに私の中からこぼれ出ました。その中で、たがいの言葉づかいがおかしいとか調整しようという感覚は、まったく生まれませんでした。実在の人物を見ているように、私はそのことばづかいのゆれを許容し受容し確信しました。一度も迷いはありませんでした。
このことは、第五部「村に」の舞台とも関係します。この村では人々の過去や上下関係が明確でなく、人間関係も対人関係もすべて流動的で不安定です。だからこそ、彼らの相手や周囲へのことば使いは固定しないし一定しません。言い換えれば、ことばづかいを固定することで人間関係や人物や世界を描き出そうとするような、ちょろいちゃちな手法は今回使っていないのです(そこまで言うか)。それでも登場人物はひとり残らず、彼らでしかない行動や発言をし、彼ら自身であるはずです。
書き出すときりがないなあ。また書きます。