「水の王子」通信(77)
アマテラスを描いたつもりで、背景に日の神にふさわしく日の出の空を簡単に描いてたら、何だかしらん松尾芭蕉の連句、
梅が香にのっと日の出る山路かな
ところどころに雉子(キジ)の啼きたつ
を思い出して、梅の木と雉子も適当につけたら、お正月の賀状にふさわしいみたいな絵柄になってしまった。私は賀状は肥えたうさちゃんのをもう仕上げてしまったので、ひょっとお使いになるかたがおられたらどーぞー(図々しいかな)。
アマテラスはこの物語の重要人物で、わずかな読者の人気投票でもいつもトップになりがちな人です。強くて、明るくて、大胆で、賢い。厳しいけど、優しい。かと言って、タカマガハラに完璧に帰依しているとかいうのではなく、けっこう独断専行も平気でするし、冒険好きでいたずらっぽく、したたかで食えない面もある。スセリとちがった意味で、どこか永遠の少女のようでもある。
昔、4部まで描いたころ、私はアマテラスは私の母のイメージだと言っていました。事実、泣いたのも何かにおびえたのも、ため息をついたのも見たことがない、母の特徴はアマテラスとかなり一致しています。昔、「女はこうだ、女はああだ」と定義や分析が横行する世の中で、私はいつも「でも母はそうじゃない」「そうじゃない女が少なくとも一人はいるのを私は知っている」と、くり返して自分を支えていました。
キリスト教と武士道精神。それが母をかたちづくっていた主要な要素だったと思います。戦時中は軍国少女で、戦後はそれを反省して、一貫して共産党と社会党を支持していました。芸術家と学者を尊敬し、金持ちと政治家をさげすんでいました。常に少数派であれ、異端であれ、と私に教え込んだ人でした。
今思えば、特に人に対しては打ち込みやすくさめやすく、夢中になってほめちぎっては、失望して遠ざかりたがるような、弱点や欠点もいろいろあったのですが、やはり彼女の強さと優しさと明るさには、今でもかなわないとつくづく感じます。
アマテラスに話を戻すと、彼女は誰にも優しいですが、中でもハヤオを大切に感じていて、ほとんど愛しているかのようです。太陽の神である以上、炎を象徴するハヤオに心をよせるのは当然なのかもしれません。どんなにみじめな恐ろしい姿になっても、時には危険な存在にかたちを変えても罪を犯しても、彼女はハヤオを見つめて守り、救いつづけます。
彼女はオオクニヌシとはちがいます。もっとわかりやすくて、もっと判断も決断も早い。迷うということがまったくと言っていいほどない。孤独も苦痛も恐れない。
作者の役得というか、負担というかの一つは、架空の話を書いているとき、その登場人物にふさわしい、どこかで合体して一体化できる部分が自分の中にないとどうしてもその人物は書けないし、にせものになってしまうということです。
そういう点では私の中にアマテラスは常にいたし、いなければならなかったし、それが私の生き方を、他の登場人物とともに、決めもしたし、続けもしたと言っていいでしょう。そういう点ではたしかに彼女は私の「神」の一人だったのでしょうね。
ところで、電子書籍の販売ページでは自分で評価1をつけましたが、あれはあくまでアマゾンさんのシステムの不備による表示に対しての評価であり、作品に対しては評価5でも足りないと思っています(笑)。ですので、どうぞ、皆さまにはご購入を心からお願いします。表示の不備にはむかつきますが、スマホではまったく問題ないし、読んでいただけたら、ひたすら嬉しいです。