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いたずらっ子列伝・5(水の王子覚書29)

この前テレビを見ていたら、「推し活」の効用についてワイドショーが話していた。特に思いがけない効用として、各地の老人ホームで、地元のサッカーチームなどの応援をして、「推し」も作るようにしたら、高齢者の男女が活気づいて元気になり、大変いい効果が生まれたと言っていた。

それでつい、私の小説の「水の王子」の中の「町で」で、かつてのタカマガハラの戦士タヂカラオが、健康志向の町を作って(もちろん全部私のでっち上げですよ)、各地の戦士を集めて競技場で競技をして技を磨き合うとともに、死を待つしかない病人や老人も町に集まって来て、競技場でひいきの選手を応援しながら満足して死ぬという、強者と弱者が共存してたがいに幸福になるという経営だか運営だかをしているという話を思い出して笑った。

「水の王子・町で」(7)/210

あれは私は何かを参考にしたのではなく、まったく自分の頭の中で、そういう町で最期を迎えられたらよかろうなと思って作った設定だったのだが、ちゃんと事実でも正しいことが証明されたような気がして、一人でちょっと悦に入っている(笑)。

さて、洋の東西の文学に登場する「いたずらっ子」の考察を続ける。

コローディの「ピノキオ」は、有名な古典で、木でつくられた操り人形のピノキオが、いろんな失敗をくり返しながら、最後は成長して立派な人間の少年になるまでの話だ。でも新訳の光文社古典新訳文庫「ピノッキオの冒険」の、行き届いた長い解説では、最初はもっとずっと短い話で、ピノキオは成長もしないまま、あえなく死んでしまうことになっていて、後に続きを書き始めたときも、作者はずいぶんいろいろの迷いや悩みを抱えていたらしい。

そんな問題点やいきさつは、とてもここでは詳しく紹介できないから、さしあたり、この連載のテーマと関係することだけを書くと、この木の人形ピノキオは、ジェペットじいさんに作ってもらったから、彼がお父さんということになるわけだが、その子どもとして見た場合、ピノキオは、別に父や他の人を困らせようとか、何か面白いことをしようとかいう気持ちは少しもない。そういう点では全然いたずらっ子ではない。そういう好奇心や積極性があまりというか全然彼にはないのである。

ピノキオが問題児というか、いたずらっ子というかの要素は、ただひとつ、彼が怠け者の勉強嫌いで遊び好きという、まあ、たしかにある点では、いたずらっ子の基本的な条件をそなえていることだ。だから、誘惑にひっかかって、学校や仕事をさぼるし、楽してもうける話があると、一も二もなくひっかかる。それを忠告し、邪魔する者は攻撃してときには殺してしまったりする。だまされてひどい目にあいつづけると、反省も後悔もするし、父や自分を助けてくれる人たちを悲しませ苦しませることは、大変つらいと思っている。

私は子どもの時にこの本を読んで、「ふしぎの国のアリス」と同様の、不気味さや気味悪さを感じたし、かそけく続いて最後にはそれでしめくくられる、健康さとまっとうさと明るさにかろうじて救われたものの、どちらかというと、得体のしれない恐い文学だった。それにしても、一方でどこかで快適でもあったのは、ピノキオが成長し反省し立派になって行くのに役に立ち、彼を教育するのは、残酷な悪人たちであり、実に手を変え品を変え、彼らはピノキオをだますし、痛めつける。しかしその一方、彼を導く立場にある父親で作り手のジュゼッペじいさんや、青い仙女などといった人々は、まったく彼を罰しないし、説教さえもほとんどしない。彼らはひたすらただ優しく、そして、ピノキオへの罰と言えば、彼ら自身が傷ついたり弱ったり消えたりして、そのことで彼を苦しめるだけだ。このあまりにも無抵抗で無気力な指導者や教育者たちは、私にはとても立派で快く思えた。さまざまな悪によって、ピノキオは誘惑され、だまされ、悪の道に堕ちる。それによって、彼を愛し導く存在は無力で弱くてひたすらに傷つくしかない。それを救えるのは、そのことで傷つき苦しむピノキオその人しかいないのだ。

ところで、紙本用の人物紹介イラストは、だんだんたまって来ているんですが、まあ、ちびちびとご紹介しますね。さしあたり、これはオオゲツヒメとヤガミヒメ、それにコノハナサクヤです。む、こんなに若い似た女性を並べると、描きわけの未熟さが目についてしまうけど。

コノハナサクヤは、いつもはみやびな装身具をじゃらじゃらつけて、他と区別するんですが、今回は、何もつけずに、勝負させてみました(笑)。

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カツジ猫