オオクニヌシの兄たち(水の王子覚書5)
自民党の安倍派の派閥を解散するとのことで、関係者の人たちが安倍元首相に申し訳ないと涙にむせんでいるのを、ニュースでちらと聞いた。この人気はもちろん私には理解不能だが、先日テレビでトランプの支持層にふれて、あの非常識な強引さが支持者には逆に魅力的に映るのだと誰かが評していたのと同様のものなのだろうか。と言ったら、両者の支持者は怒るのかそうでもないのか。それも私には見当がつかない。
第二次大戦中の日本で、「近きより」の個人誌を発行しつづけて、軍国主義や天皇制に抵抗しつづけた弁護士正木ひろしは、東條英機をめちゃくちゃ攻撃しているが、その文章の中で、「あのヒットラーの愛嬌あるちょびひげを見よ」とか書いていて、日本の指導者にないヒットラーの魅力に触れている。もちろんこれは目くらましのポーズもあるのかしれないが、何しろそのように、強烈な個性をあらわにするかに見える指導者支配者独裁者は、それなりの信者を持つことも確かである。
私も何度か無駄過ぎる予感を感じつつ、安倍晋三のこのような魅力の要素を少しでも知りたいと思って、彼の追悼集の雑誌など読んだりもしたが、結果はみごとな徒労に終わった。
ほとぼりがさめたってわけでもないが、最近また性懲りもなく適菜収「安倍晋三の正体」を買って読んで見た。納得するというか、そんなこったと思うようなことばかりで、特に新しく目を開かれるようなことはなかったのだが、そこであらためて痛感したのは、たしかにアベ元首相という人は、まちがっても人の上に立たせちゃいけない(危険とかいうより、しょーもないという意味で)人物ではあるけれど、それは彼自身がどうこうというより、こういう人を呼び出してこの位置につけてしまわざるを得なかった、時の流れと世界のあり方の方が、はるかに罪が深いし、問題だったのだなということだった。
今の世界はロシアのプーチン、イスラエルのネタニヤフ、アメリカのトランプと、目をおおいたくなるような人材ばかりがひしめいているが、それらは彼ら個人の問題というより、世界の動きや流れの(つまりは私たちの)責任だなという気がしてならないし、だとしたら、そういう独裁者や戦争を生むものについて、私たちの心の中や、身の回りを点検しておくことが、相当に緊急の課題だ。
「水の王子」は、私の学生運動や政治活動に関わった体験を反映した第三部「都には」、女性としての生き方を見つめた第四部「海の」、をはじめとして、徹頭徹尾、私の内部の表現で寓話でもある。もちろん、第五部「村に」だってそうだ。
特に予定していたわけでもなく、とても自然にこの話は、オオクニヌシの過去を見つめ直す展開になって行ったが、そこで私が見つめて描きたかったのは、現在のような世界を生み出したこの時代のあり方とは、いったいどこに原因があったのかという、私なりの分析でもあった。
末の弟を残酷に二度も殺害しようとした、兄たちはその後どういう生き方をしたのか、その体験の上に未来を築こうとしたのか。それを追求したかった。
だが、まあ、それができなかったわけではないが、結局のところ私は兄たちのすべてを断罪も処分もできず、皆をそれぞれ、いい人として描いてしまったようである。それが、とりも直さず、現在の、現実の、独裁者とそれを支えるものたちへの甘さになってしまわなければいいのだが。
もっとも私には、「汝の敵を愛せよ、ということばに真実がないわけではない。あえて言うなら、敵への愛情は勝利の予感、憎悪は敗北の確信である」と、高校のときにノートに書いてた人間であるから、これもまた、勝利につながる道になったらいいなと、そこはそこそこ楽観的でもある。
そして、それなりに今の私にわかる段階で、私は兄たちの責任や弱点を書いてみたつもりでもある。
彼らは、過去の自分たちの行動を、見つめなかったし、向き合わなかった。
自分たちどうしで、それを話し合うこともしなかった。
そして、目をそらしたまま、他者や上部に、それをかくそうとし続けた。
そのことに耐えられない者は、ただ、その場を離れて、逃避した。
あるいは、そのことに目を閉ざしつづけて、さりげなく無難に周囲との調和をめざした。
そして、それに矛盾する現実が生まれたら、その現実の方を消そうとした。
あげくに、自分に都合よく動く者たちだけを周囲に集めようとした。
それが難しくなると、周囲を人間以外の生物と交換して、他のすべてを滅ぼした。
これが彼らの罪である。
私たちがこれからでも、できるだけ防がなければならないことの数々である。