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好きになる責任

またちょっと由布院に行って来ました。気軽な一人旅は最高です。
ただ私はホテルではしゃかりきに仕事をするので、大きなバッグを持ちこんで、書いたり読んだり考えたりしまくるので、ごはんとお風呂が自分で準備しなくてもいいだけで、家にいるのとあまり変わらないかもしれない。
着いた時は雨でしたが、朝はよく晴れて、由布岳がきれいに見えました。
朝、金鱗湖まで歩いて行って見たら、私がいつも立ち寄っていろいろ買う、小さなアンティークの店はなくなっていて残念でした。コロナ騒ぎで持ちこたえられなかったのだろうか。
紅葉はまだ盛りではありませんでしたが、きれいでした。
仕事もちょっとは成果があったようで、満足して帰りました。
お留守番をさせられた猫のカツジは、例によって少しふてていて、いつもは行きもしないベッドの横の椅子の下に黙って寝たりしています。

昨日書いた、私のしつこいミーハー精神の話ですが、ひとつには、「人やものを好きになる(ファンになる、熱を上げる)責任」みたいな感覚が私にはあるのだと思います。
これは、自分自身の場合はわりとはっきり自覚していて、「断捨離狂騒曲」にも書いたことですが、私は普通は他人に対して、いいかげんと思われてもしかたがないぐらい、何があっても何をされても気にしないのです。でも、いったん私のことを好きだとか愛してるとか言おうもんなら、そのとたんに要求水準が天井知らずにはね上がる(笑)。
わがままを言ったりしたり、ツバメの子安貝を取って来いとか、そんなことを要求はしません。私をちゃんと理解して、自分や他の誰かより私のことを第一番に考えているか、そのあたりがいいかげんだと、ああこの人の私への尊敬や愛というのはその程度かと思うし、それで全然かまわないけど、ただ私の前でもよそでも、あっちこっちでしょっちゅう、私を好きだの愛してるだのと言うのはやめといてほしい。だって、私に言わせれば、それって本当のことじゃないから。

私は人でもものでも動物でも、よっぽど理解しないと好きにはならない。そもそも少々つきあっても理解したとは思わない。理解しないで好きになったら、少なくともそれを口には出さない。

それはわかっていたのですが、先日のDVDの件から思いめぐらしていると、私は好きな作品や人物一般にも、同じ基準をあてはめていることがあるようです。
ものすごく自分が好きな映画や本や人物のことを、普通に好きな人がいても、別に気にはならないし、むしろ好ましい。しかし、熱烈に熱狂的に、それに対する愛情を語られると、やはり、その人が、その作品や人物を、どの程度理解し、どこが好きなのか少しは気になって来る。
あまり知りたいと思うわけではありません。ただ時々、「えっ、そんなに好きだと言いながら、この人は、そんなこともわかっていないのか」と驚くことがたまにあります。「この作品や人物にとって、それがどんなに危険なことか、つらいことか、悲しいことか、あなたは気づかないでいたのか」という驚きです。「あなたが、この作品や、この人物を好きだと言っているのは、そんなことさえわからないでいられる、その程度のことなのか。それであなたは、好きだとか愛しているとか言って回っていたわけか」という失望です。

まあ別にそれで私が何をするわけでもありません。ただまあ、そういう人の一人の文章を目にしてから、それまで捨てずに取っておくようにしていた岩波の「図書」を私は平気で処分するようになりました。その人の文章がもう載っていなくても、何度か載ったというだけで、もうその雑誌を家に置く気になれなかった。断捨離的には大変助かりましたから、その評論家には感謝してます(笑)。

いいかげんに無責任に何かを愛するのを、別に悪いとは思いません。そうしなければ生きていけないことだってある。ただ、できることなら、私自身や私にとって大切なものは、そういう人づきあいや自分探しのアイテムやツールとして使ってほしくないと思うだけです。
心をこめて愛すれば、命があるものでもないものでも、架空のものでも現実のものでも、きっと他の人には見えない何かが見えて来る。限りない発見がいくらでも続く。それは才能とか技術とか知識とかの問題じゃない。自分と他人を愛する力の深さです。そんな愛され方をしたら幸運だと思う。そんな愛し方をしたら幸福だと思う。その両方の少しを知っている私は、多分恵まれているんだろうと思っています。いつまでそれを失わずに続けられるかは知らないけれど。

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カツジ猫