無理はなさらず
朝から、ふわふわ雪が降ってる。葉っぱが落ちて枯れ枝だけになってるように見えて、ちゃんと芽がついているのかしらと私を冷や冷やさせている、上の家の玄関前のユキヤナギも、こんな状態で、みごとに花が満開のようだ。ユキヤナギが雪柳してるのだから世話はない。
見ている分にはきれいだけど、これはもう明日の映画会はどうなることやら。昨日はお誘いしましたけれど、皆さまくれぐれも無理はなさいませんように。そもそも私も、この分だとタクシーで行くしかないかと思ったりしているぐらいですので。
まさかそんなこともあるまいけど、私のお願いにほだされて、無理して車でおいでになって事故にでもおあいになったら、それこそ悔やんでも追っつかない。絶対に言っちゃいけない考えてもいけないことですけど、何か事故があって人数に関係なく亡くなられた方がいらした時に、ふっと頭のすみっこをよぎるのは、トランプの支持者はどのくらいおられたのかなとか、ちゃんと投票に行かれる方はどのくらいいらしたのかなとかいうことだったりするのですよ、私の罰当たりな精神は。それを考えると、この際、映画を見に来て下さるような方には一人でも絶対に何かあってほしくはないもん。
幸い食料は充分に買いこんであるし、行き当たりばったりに作る怪しげな料理はとてもおいしく、毎回、ちゃんと食卓に並べて、座って食べるまでが待ちきれなくて、立ったまま思わずひと口ふた口食べては「うう~ん」とうっとりしてるぐらいだから、自分でも幸せな食い意地だと思う。昨日はブロックで買っていたポーク(私はこのかたまりを包丁で切り分けて、ステーキをこさえるのが、毎回おもしろくてしょうがない)の切り分けた余りを、庭の月桂樹とバジルをしこたまむしったのといっしょにタッパーにつめこんでおいて、炒めるときにもそのままにしたら、香りがかなり移って素敵だった。しかし、あれほど茂りまくって刈り込まなくてはと悩ましかったバジルの藪が何だかすっかり衰えてなくなりかけていたのも、ありがたいけどちょっとショック。
ホロヴィッツのミステリ『死はすぐそばに』は、たしかに後味の悪い終わり方だけど、それは予告されまくりだし、そこが面白い作品ではあった。特に途中の事件の舞台となった高級住宅街を作者だか語り手だか主人公だかが訪問するあたりは、何かこう、時の流れがそくそくと身にしみて無常感が漂って、悪くなかった。というか、とてもよかった。犯罪現場に関わって、誰が被害者か加害者かもわからないまま、場所も人も変わって行ってる、その生々しさを残したまま、古びて行く感じが、なかなかありそうで見られないものだった。
「めぐりあう時間たち」も読みたくなって検索したら、えー、これ文庫本になってないのー?! あんなに面白いのに版権か何かの都合なんだろうか。単行本は買えるんだけど、でも私そっちは持ってて、探せば出て来るはずなんだよね。
せめてと思ってDVDを買った。最初に吹き替えで見てみたら、ちょっと音響が悪いのが惜しかった。そして声優さんたちが奮闘してはいるんだけど、何しろもとの三人の名女優が(ニコール・キッドマン、ジュリアン・ムーア、メリル・ストリープって、もうそれ何よ、化け物級の名女優ばっかりで、恐いんだったら)すごすぎて、あー、この吹き替えはつらいよなあと深く同情する出来栄えだった。映像や演技はあいかわらずゴージャスで完璧。何でもない幸せそうな日常が、びりびりきりきりはりつめて、ホラー映画なみに恐ろしくて、しかもそれが美しくて魅力的なんだから、どうすりゃいいのさもうって話だ。ひたすらにもう、堪能する。
そんな単純なものじゃ決してないんだろうが、あらためて見ると、もしかしたら、これはレスビアンもテーマになってるんじゃないかと思ったりする。その満たされない欲望に、魂がねじきれそうになっている部分もあるのじゃないかいなって。それも含めて、自分は何か、望みは何かと模索しつづける人たちの話かもしれない。どこかで感受性を殺してしまい、そんなもの見つめたり求めたりしないで生きていたら、わりと簡単に幸福になれたにちがいない人たちの。
別に現実とつなげなくてもいいけれど、私はニコールの演じた作家バージニア・ウルフの小説は読んでも印象に残らなかったのに、彼女のどこかの女子大での講演『私だけの部屋』の文庫本に、震えるほどに共感し魅せられた。女性が作家になろうと思えば、まず一定の収入(彼女は額をきちんと書いてた)と自分だけの部屋が必要、と明確に述べた彼女の話は、当時の(多分、今もかなりの)女性たちが置かれていた状況を、的確に、鮮明に、撃ち抜いていた。自分の感性とことばとで、ゆるぎなく彼女はそれを語っていた。こんなことを理解して、感じ取って生きている人なら、それは自殺もするだろうと私は後で思ったものだ。金子みすずの死について抱いた思いともちょっと似ていた。
実はそのDVDを見るまで、アニメ「忘却バッテリー」のDVDを、ずっと入れっぱなしでくり返し見ていた。そして、ショックを受けたのは、このすっとんきょうに面白いギャグ満載の野球漫画が、健康な王道スポーツ漫画でありながら(その方面の質も高いが)、根底の中枢は、まさに「めぐりあう時間たち」と同質の、自分の本質、自分の生き方を探り求めてもがきつづける人間たちの物語に他ならないということだった。
詳しいことはまたいつか書くが、もうこれは作者は確信犯で計画的で、最初は誰にも比較的わかりやすい、藤堂葵遊撃手のイップス克服からはじまって、より内面的で孤独で微妙な千早瞬平二塁手の自意識や他者との関わりを描き、そして最近ではいよいよ、中核をなす、記憶喪失だか二重人格だかの要圭捕手、彼によって作られたアンドロイドもどきの清峰葉流火投手の問題に触れて、「自分とは何なのか」「潜在している性格は何か」「抑制しているものは何か」について、ひりひりするような分析をして、登場人物ひいては読者をえぐり出しつづけている。
「めぐりあう時間たち」が、そういう問題を、繊細で華麗な大人の女性たちの生活のなかで描いたように、「忘却バッテリー」は、それを汗と砂と陽光にみちみちた、大ざっぱで単純そのもののような健康的な開放されまくった空間でやってのける。
最新の展開では、派手な要圭捕手の葛藤もだが、次第に自分の本質を見つけ始めた清峰投手の、危うさと切なさの色っぽさがものすごい。無口な人造人間風の彼だったから、声優さんは本領を発揮できなくて大変だったろうと思うが、ここに来て、その実力がいかんなく発揮放出されるのだろうと予測しただけでも、わくわくして心臓に悪い。