ラフな格差論8-その判定は信ずるに足るか

なぜか当然と思えない

これまで述べてきたように、私が自分に与えられた、めぐまれた境遇や条件を当然のものとして安心してうけいれていていいか、いつも不安だというようなことを口にすると、特に若い人などは本当に理解できないといった様子でふしぎがる。どうしてそれを、自分はそれなりの努力をしてきたからあたりまえ、と思えないのか、と言う。

私だって、理不尽に報われなかったり不当なしうちを受けたりしたら、ちゃんと抗議もするし、自分が受けるべき恩恵は要求してもぎとる。しかし、それ以上に、自分が今与えられている地位や幸福を胸をはって受け取っていていいという確信はいつも持てない。たまたま不運やいろんな事情で、当然私と同じか私以上に、それを得るのにふさわしいのに、得られなかった人たちが大勢いるはずと、いつも感じる。長く生きて、広く世間を見るほどにその実感は、深く、強くなってきている。

ああ、またこのキャラかい

言っておくが、現実に「あなたは恵まれているから、私にもよこせ」とおすそわけを求めて来る人には私はまったく、やましさもうしろめたさも感じない。大昔には感じたこともあったかしれないが、記憶のかけらにも残らないほど、今はもうそんな気持ちはない。
私は見た目、かなりぼけっ、ぼさっ、としているので、「何であなたみたいな人が、家を持ち土地を持ち職を持ち男を持っているのかわからない、自分と大して変わらないのに、自分の方がましなのに、運がいいとしか思えない。罪滅ぼしにこの私に少しは何かをよこすべきだ」というまなざしを、隣人友人知人教え子家族見知らぬ他人その他から、かなり露骨に向けられることがある。もちろん、そうでない人の方が圧倒的に多いが、それだけに、たまに向けられても度重なると、もう今では「む、また、このキャラか」と、すぐにわかってしまう。

私は、こんな目で私を見る人に何かを与えることで、自分の持ちすぎた罪が少しでも減らされるとは思えない。ひとつには、こういう人は一方で、自分より弱い貧しい苦しんでいる存在に対しては、「私は苦労したんだから、能力があるんだから」と恐ろしいほど鉄面皮に、自分の手持ちのものを死守するからだ。この人たちは、恵まれた者からは奪い、恵まれない者には与えない。自分は普通で標準だと考えるから、エリートの使命感も、落ちこぼれの危機感もない。だから誰の気持ちも思いやらない。始末の悪さという点では最強である。

神や上司にゆだねるのはいや

こんな人たちは気にならないのだが、それでも私が自分の幸福や幸運を安心して持っていられないのは、結局、私にそれを与えた何かを、私が信じていないからである。神か社会か親か上司か大衆か恋人か、その他いろいろの存在を。
最近、米澤穂信という若い人むきの作家の本をいくつか読んだ。ライトノベルというものらしいが、しっかりした作品で、その軸とする精神の一つに「他人に利用されまい、気づかずに使われまい」という意識があるような気がする。それは別の、人気のあるアニメ作家にも見られるようで、これが昨今の若者の傾向ならそこは私と似ている。

また、リフトンという心理学者の「ヒロシマを生き抜く」という被爆者へのインタビューとその分析の本も読んだのだが、あらためて被爆者の生死をわけた紙一重の運命のさまざまを思うと、「なぜ自分が生き残ったか」という究極の格差への問いかけが被爆者に重くのしかかっているのがわかる。その解決のために宗教や平和運動に関わっていく人たちもいる。

それは結局、誇りの問題

命の有無という最大の岐路にせよ、合格にせよ就職にせよ結婚にせよ当選にせよ、それを当然のものとして、自分の努力や能力にふさわしいものとして落ちついていられるのは、それが神だか愛する相手だか党本部だか国民だかの正当な評価と認めることではないだろうか。
ということは、それらが自分にどんな不幸を与えても、あきらめてうけいれることを約束するのと同じではないのか。それは、自分の運命を、自分の価値の判定を、自分以外の何かにゆだねて疑わないことではないのか。

幸福を与えてもらえるのはうれしい。奪われたり苛酷な試練を与えられたら反省も努力もする。だがその判定や評価や報酬を、全面的に信じているわけではないという、ささやかな抵抗の姿勢はいつも持っておきたい。私をひきあげた何かが、私の代わりにたたき落としたものと、いつもつながっておきたい。両者の間に差をつけるそんな何かの言いなりになって、私と私以外のすべての人を仕分けする、より高くより強いそのような存在に、すべてをひきわたしてしまいたくない。これは心の問題というよりは、むしろ誇りの問題である。

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カツジ猫