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断捨離新世紀(15)捨てさせないアルバム

【20202の悲劇】

喉元すぎれば暑さ忘れるのことわざ通り、人間は当初の苦しみを少し忘れると、かえって思い出にふれる勇気が出る分、愚痴も増えたりする。

「断捨離停車駅」にも書いたように2020年2月に田舎の家の書庫の本や資料を、親切な方からばっさり捨てられて、私の過去と未来が壊滅した。
心理学なんて大して信用してもないが、大きな喪失や衝撃のあとで、怒りとか受容とかいろんな回復期の段階があるのらしい。

それにのっとっているのかどうかわからないが、この事件のあと私はしばらく無意識で、その後じわじわ痛みが来て、無気力になったりした時期も経て、今はどれだけ立ち直っているのか自分でもわからない。

若山牧水の歌で好きなのに、

 みな人にそむきて一人われ行かんわが悲しみは人にゆるさじ

というのがあって、私は周囲にもほとんどこの間のそう言った気分は言わずにきた。今後も話すことはないだろう。
ただ、触れば感じる痛みが薄れた分、その心の部分をさぐる勇気も出て、最近気づくと、ブログのあちこちで、ちょこちょこ愚痴や恨み節を書いている。これもまあ回復の一過程だろうし、愛する人間や生き物を理不尽に失った人たちの苦しみに比べれば、私はずいぶん恵まれているし、余裕もきっとあるのだろう。

【写真の整理をはじめたら】

いつもながら前置きが長くなったが、最近家の片づけの一環として、膨大な写真の整理や廃棄にとりかかっている。他の作業と同じに遅々として進まない。

その中で、大昔のやしばらく以前のや、まだ使っていないアルバムも、これまた何冊も出てきた。
 写真の整理のめどもいまいちつかぬまま、このアルバムの使い方を考えている内に、いつからか例によって私の頭の中には、他人はまず思いつかない、恐ろしいような構想がちらつきはじめた。

昔、「岸辺のアルバム」というテレビドラマがあった。八千草薫さんが浮気する人妻を演ずるという当時の人には衝撃的な筋だった。で、ラストで崩壊しかけた家族を近くの川の氾濫が襲う。彼らはその時、何はさておき必死で自分たちの家族写真のアルバムを、水没しそうな家から運び出す。

今もそういう家族っているのかな。私も叔母夫妻の死後にマンションを片づけたとき、海外旅行やゴルフが好きだった仲良しの二人が写っているたくさんのアルバムを、お手伝いさんといっしょにかなり捨てた。目を通したりするひまさえもなかった。写真の中の幸福そうな二人を見ながら、いい一生だったのかなと救われる気はしていたが。
うっかり残った一二冊のアルバムは、今も私の手元にある。多分死ぬまで私は処分しないだろう。これからの家中にあふれる荷物の処分作業の中で、その決意をする余裕もなさそうだ。

【立ちはだかる壁】

私が「20202の悲劇」を思い出すたび、いつも理解できずに立ち止まって行き詰まってしまうのは、私のことを深く愛してくれ、私の作品も愛してくれ、良識も教養もセンスの良さも十分にある方が、あんなにも無造作に疑いもためらいもなく、私にとっても家族にとっても、日本の歴史や国文学の研究にとってもかけがえのない、貴重な資料や大事なはがきや手紙や写真や古い書類の数々を、やぶって丸めてごみ回収業者に出してしまわれ、それで私に喜んで幸せになってもらえると思いこんでおられた事実だ。

その方々のお気持ちに善意と私への愛以外のものは何もなかった。今でも快くおつきあいしているし、私のその対応や気持ちにも、これまたまったく嘘はまじりこんでいない。
この事件を聞いた私の教え子のひとりは、その方々を「狂人」と言い放ち、実のところ私はその言葉に、どれだけ慰められ救われたかわからない。そう言ってしまえればどんなに幸せだろうが、私にはそれができない。
聞くのは恐い。これからも多分聞かない。ただ、これだけ不可解な他者が存在することに、私はどうかすると、異国人やカルトやサイコやシリアルキラーに対する以上の恐怖を抱く。最近の国政担当者や富裕層や権力者にも同様の感覚を抱くこともある。戦場や戦時下の兵士や市民にもそういう人は生まれるのかもしれない。

敵を知りおのれを知れば百戦危うからずとは兵法の極意だ。敵を知る勇気がなく努力も放棄している私のこの戦いに勝ち目はあまりない。
それでも、そういう無謀で不毛な戦いを、だんだんしてみたくなって来た。
私でさえ捨ててしまう、おそらく多くの家庭でこの今もまっさきに処理され処分されている家族や個人のアルバムの、知人親戚、赤の他人をとわず、絶対に捨てられない、捨てさせないアルバムを作ってみたいという誘惑である。
もしかしたらガンの新薬や宇宙旅行のステーションを作る以上に、これは困難で大胆な試みかもしれない。

【まずは二冊】

そんなことをぼんやり考えながら、気がつくと私は比較的きれいで新しい二冊のアルバムにそれぞれ、何となく捨てかねる、あまり意味のないはんぱな写真を思いのままに拾い上げては貼りつけて見ていた。思いきりぜいたくに空白を残してレイアウトして。それぞれのトップページには私の愛した猫の兄弟それぞれの写真を入れた。どの写真にも何の説明も加えなかった。
 会ったこともない若い親戚たちや、知り合いの人たちを思い浮かべなかったわけではないけれど、むしろ漠然と描いていたのは私のことを何も知らないで、このアルバムをとってめくった人が、何の意味もわからずにぼんやり楽しく、時にふれてながめながら、いろんな空想や休憩をする、というイメージだった。

まったく何でもない、家の中の無人の一隅。亡くなった叔父たちの戦前の写真の中にまじっていたシャーリー・テンプルらしいポートレート。まちがってモノクロのフィルムで撮ってしまった田舎の家の庭の桜。昔わが家に遊びに来てくれていたらしい近くの航空隊の兵士たち。まったく何のとりとめもない、記憶のかけらや断片のような。

これがどれだけ、人をひきつける「作品」になっているのだろうか。どんな手紙も絵画も破って処分できる人たちの手をどれだけとどめることができるのだろうか。そういった人たちの手をとめ、心をつなぎとめられるのだろうか。生まれて一度も使ったことのない種類の私の能力。敵を知らないままに試みる果敢で遠大な、もしかしたら愚かしい挑戦。
その始まりになるはずの二冊を私は黙ってキッチンの棚に載せた。

【そして次は】

ひきつづき見つかっているアルバムは、何年か前によっぽどお金があったのか5冊も買い込んでいる、未使用の美しいものだ。
仏壇の線香が消えるのを待つ間、毎朝これらをひっくり返して、どう使おうか、何かいいイメージがひらめかないかと考え続けた。楽しいような無為なような、妙に安らぐ時間でもあった。

数日前にイメージがわいた。もう手放した田舎の家にあった、木々や花を中心にして、それから家の建物、周辺の風景、住んだ人々へ話を発展させる「かしの木と水仙」というタイトルの連作にしようと。説明はごくごくかんたんなものにして、けれどひとつの物語にする。

たかが写真の整理と処分に私は何をやっているのやら。
でもこれも、もしかしたら、とても巨大な何かへの私にしかできない戦いなのかもしれない。(2022.11.21.)

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カツジ猫