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断捨離新世紀(7)マッチマッチマッチ

マッチマッチマッチ

山のような仏具

亡くなった叔母のマンション、売却した田舎の実家、それらから引き取った山ほどの荷物の中で、そこそこあったのが、仏壇関係の道具だった。
もともとキリスト教にも縁が深かった家なので、そう真剣に仏事につとめていたわけでもなかったから、普通の家よりは少なかったと思う。
それでも、ロウソク、線香、などはいただいたものも多くて、気が遠くなるほどの量があったし、それらに火を灯すマッチのいろいろも、これまたとんでもない数だった。

私はとにかく、それらをまとめて、小さい仏壇二つに押しこめ、先のことは考えないようにして、とにかく毎日、仏壇に灯明をともして、線香を上げることにした。一方で神棚やキリスト像にも毎朝手を合わせる、超怪しげな宗教生活ではあったが。

トンネルの先が見えてきた

それからもう何年たったろう。塵も積もればの反対で、あれほどあったロウソクも線香も、ついにほとんどなくなって来た。マッチも家中のそこここから見つかるたびに、仏壇の前に持って行っていたら、これもどうにか、小さなかごに入り切るほどの量に減ってきた。

マッチはそれぞれ、いろんな店や施設の名が入っている。私自身が持ち帰ったものもあれば、母や実家で使ったらしいものや、叔母夫婦の家にあったものもある。
そして、何とか火がつくものもあれば、もう湿っていたり古びたりして、まったく点火できないものもある。

うまく火がついて使い果たして、空になったマッチ箱も、自分や家族親族との思い出がからむものは、おいそれと捨てられない。
直接記憶に残らない店名や施設名のマッチも、おそらく何十年もたっているはずなのに、ちゃんと火がつき炎が上がり、軸木まで燃えてつとめを果たすものは、ついつい感動し賞賛して、箱をすてるにしのびない。

しかし、そうも言っておられないので、そろそろ処分することにして、その前にせめて写真で全員?を紹介しておくことにしよう。

記憶の中の店々

まず、これらは、私自身が一人で、または家族の誰かと訪れた記憶のある店のいろいろだ。
「シルバーイン」は、東京のビジネスホテル。たしか秋葉原の駅近くだった。資料調査に行くときにいつも利用していた。当時はネットも使わなかったからJRの時刻表か何かの広告ページで適当に選んだ。理由は当時わが家に出入りしていた白い大きな猫の名を、勝手にシルバーにしていたからだ。

「ホワイトハウス」はもうなくなったが、近くの国道沿いにあった大きなレストランで、観葉植物が多く置かれて、学生たちに人気があった。私もよく利用した。卒論指導していたゲイをカミングアウトしていた元気な男子学生と食事したとき、彼が「この店はキライなんです」と断言したのを覚えている。理由は聞きそびれたが、美意識やポリシーをしっかり持っていて、女装を貫いていた彼だから、どこか許せないセンスがあったのだろう。
 この店ではまた、それほど親しくしていたつもりはない女子学生と、夜中近くまでしゃべったことがある。こちらは疲れて早く帰りたかったのに、相手は話すのが楽しかったのか、いつまでもつきあわされることになった。そういうことは、ままあるので気になったわけではないが、やっとどうということもない話がおわって、店を出て別れた直後、その女性の母親から電話がかかり、娘がまだ帰らないので心配している、こんな時間まで話すのは非常識だというようなことを言われたのには、はっきり言って仰天した。

そんな体験がそのときだけだったというのも私の教師生活は恵まれていたというべきなのだろうが、その時の私の怒りと脱力感は今思い出してもすさまじかった。そもそも男女を問わず研究室で自宅で夜明けまで二人だけで語り明かすのなど、当時の私には日常だった。それは実り多く楽しい時間で、もちろん文句や不満を言う家族などは登場しなかった。

今の感覚では非常識なことかもしれない。しかし、その母親からの電話に謝罪も含めて穏やかに対応して切ったあと、私が痛切かつ痛烈に思ったのは、「てめえが親に連絡するなり、親から心配されないような日常を築いておくなりすることもしていない、幼稚で非常識なひよっ子が、教師と夜中まで話すような身の程知らずな身分不相応なことをするな、ドバカのアホが、くたばれ」ということだった。そしてそれ以後、私は学生たちと深夜まで語り明かすのを基本的にはやめたような気がする。

「サントロペ」は、行橋のあたりのイタリアンレストランで、帰省の途中にときどき寄っていた。やがて代替わりして別の店になってからは、ほとんど行っていない。帰省の時はちょうど中間地点だったので、往復どちらでも、休憩には手ごろだった。近くの「鐘の鳴る丘」というお店も愛用していたが、マッチがなかったのか、残っていない。

うなぎの「竹の屋」は、大分県の中津あたりのうなぎ屋だ。多分まだあるだろう。帰省したときや、母がうちに来たときの往復に、二人でよく立ち寄ってうなぎ定食を食べた。おいしいねと二人で言い合って、楽しい時間を過ごした。母とはよく喧嘩もしたが、この店ではいつも二人ともきげんがよく、不愉快な思い出がまったく残っていないという点で、立派で大きいけれど平凡な、特におしゃれでもない、普通の古めかしい店なのに、特筆すべき場所である。

一方、「熊魚菴」は博多大丸のレストラン街にあった、高級な和食の店で、叔母夫婦によくごちそうになった。時々は一人で行ったし、二人が亡くなったあとも何度か行ったかもしれない。いつもあそこに行けば、あの店があるとどこかで思っていたのに、ある時行ったら、なくなって、別の和食の店になっていた。いつまでもずっとあるものと安心していた、叔母と叔父のいた世界が消えてしまったようで、窓からのぞいたら母親が新しい赤ちゃんと寝ていたのを見たピーター・パンのように、私はしばらく大丸の通路で呆然と立ちつくしていたものだ。

「海幸」も、博多の地下街にあった立派な和食の店で、多分まだある。ここも叔母夫婦に昔から連れて行ってもらって、よくごちそうになった。マッチのデザインがいろいろあるのも、とても長期間のつきあいだったことを示すだろう。お店のなじみの女性に叔母夫婦はお金を貸したりしていたこともあったようだ。
叔母と叔父は二人とも医者で病院づとめをしていたから、食事の合間に電話がかかって来て、患者さんの様子が急変したとか亡くなったとかいう報告が入ることもしばしばあった。二人はそれぞれ、そういうときには、てきぱきと対応して投与する薬や遺族への連絡などを的確に指示したあと、何事もなかったように箸をとって、このエビはおいしいとか、吸い物の味が最高とか、楽しげに話を続けた。
田舎で医院を開いていた祖父も、ドアと短い廊下を隔てた診療所で、患者や家族のうめき声や泣き声がしていても、平気で普通に茶の間や居間に戻ってきて、小鳥の世話やテレビ鑑賞を楽しんでいた。そんな祖父も叔母夫婦も、やがて患者として病院で治療を受け、亡くなったが、彼らを見ていて私は幼いころから自然に、病気とか死とかいうものは、当事者にとっては深刻でも悲痛でも、他者にとっては決してそうではないし、特に医師や看護師にとっては、感情移入するべきでない、ただの仕事の一環なのだと、理解しつくしていたような気がする。

現役続行の強者たち

こちらは、程度の差こそあれ、何とか火がついて、炎をロウソクに移せた箱の数々。店の住所から、叔母夫婦の家の近くや旅行先のものだとか、母や祖父母のいた実家の近くのものだとか、およその見当はつくが、地方のホテルなどのものは、JRの旅行によく行っていた母のものか、夫婦で観光旅行をよくしていた叔母のものか、判断できないものもある。
いずれにせよ、数十年の年月を経て、普通に火がつく、これらのマッチにはほとほと感動する。製造者の名前を知りたい、顔が見たい、賞賛のことばを伝えたいとさえ思う。
中には、頭の炎は即座についても、軸木には燃え移らないで消えてしまいがちなものもある。それでも何とか使えるし、「大手門」という店のマッチなどは、軸木もすべてほぼ完璧に火を伝えた。お見事という他ない。

使えなかったものたち

これらは、残念ながらしけっていて使えなかった箱類。捨ててしまったものもあったかもしれないが、空の箱にならないと基本的には捨てなかった気もするから、そうなると案外まったく使えなかったものは少なかったのかもしれない。何しろ大変な量だったから、初期の処理のしかたは、いちいち細かく思い出せない。

味も素っ気もない大きめの普通のマッチ箱は、ただ側面の軸木をすりつけるためにだけ補充したもの。使えるマッチ箱も側面はさすがに劣化して、点火できないものがほとんどだったのだ。

大型の長い軸木のマッチは、珍しさもあって、つい大切にしてまだ使っていない。果たして火がつくのかどうか、そろそろ試してみた方がいいのかもしれない。

ちなみに、点火しなかったマッチは、一応そのままとっておいて、時間があるとき、ローソクにつけて燃やしてやる。何だかマッチ売りの少女になったような気がするが、一度は炎を燃え上がらせて、かたちだけでも仕事をさせてやりたい。

その日が来たら

いよいよ一本残らず使い果たした時の達成感や爽快感はいかなるものか、最近ではときどきちょっと想像もするようになった。空箱のいくつかは記念に残しておこうかしらとか、そういうことを思いめぐらしたりもする。
もうマッチをくれる店などもないだろうから、マッチを使わずバーナーを利用するようになるかもしれない。それは、その時になってみないとわからない。(2022.1.7.)

追記

その後、おひなさまを飾ろうとして、どこにしまったかわからなくなり、古い荷物をひっくり返していたら、もういいかげん家中から回収したと思っていたマッチが、久しぶりにひとつかみほど出て来た。仏壇用だったのか、古い汚れてよじれた小さいろうそくもいっしょだった。

がっくりするより私は妙にはりきって、その古いマッチの一つ(多久まんじゅうのお店の)を使ってみた。何と立派に楽々と炎がついて朝の灯明を上げられた。さすがは孔子廟に調査に行ったとき、近くで食べた多久まんじゅうのお店のものだ(笑)。当分また、これらの箱をチェックして、使えるものとそうでないのとの仕分けをしなければならない。ろうそくの方も、しっかり使い切ってやる予定だ。

垣谷美雨の小説『七十歳死亡法案、可決 ー母、家出しますー』(幻冬舎文庫)は、七十歳で安楽死するという法案が通過した社会の話で、これだと私はとっくに安楽死してることになってる。まあそういうトシだということも自覚して、死ぬまでにしておく仕事の仕上げをそろそろ急がなくてはなるまい。飼い猫が死ぬまでは何としても長生きせねばなるまいし、どうせ中途半端に終わることがわかっているメインの仕事はしょうがないが、わりと細かい、どーでもいいような雑務ほど、ちゃっちゃと片づけておいた方が、最晩年は快適そうだ。
このマッチとろうそくの使い切りも、そのささやかな仕事の一つにはちがいない。(2022・2.9.)

更にまた追記

その後また、空いた額縁にマッチの空き箱を少しずつ貼りつけて行って、どうにか二つの額を作り上げた。記憶に残る店のは「なつかしいマッチ」、どこのかわからないが、しっかり燃えてくれた店のは「がんばったマッチ」とタイトルをつけて、中でもすごくしっかり使えた店のには、つい感謝をこめてバラのシールを貼っちゃったりして。

つくづくこんなことしてるヒマはないのだけど、まあ今年のお盆にしあげた仕事の記念ってことにしておこう。
今後また残したいマッチ箱が見つかったら、どうしよう。この上から貼りつけてやろうかしらん。(2022.8.15.)

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カツジ猫