断捨離新世紀(8)母と祖父と編物と
母と祖父と編物と
冷たさの源泉
前に断捨離狂騒曲の中の「(13)一人の誕生日」でも書いたが、祖父と母は仲が悪く、一つ屋根の下にいながら、必要最小限のこと以外は口をきいたのも見たことがなかった。多分母の方が強烈に拒絶していたのだと思う。
それでも母はときどき、「昔は兄弟姉妹の中で私が一番かわいがられていた」「学生時代に寄宿舎によこしたおじいちゃんの手紙は、まるでラブレターのようだった」「おじいちゃんは、よく見ると、いろりのそばで居眠りしている顔はタタール人の酋長のようで、いい顔をしている」などと私に言ったことがある。
なぜそこまで不仲になったのかは、聞かなかったし、わからない。優しいようでなかなかに策士の祖母が、母を味方につけて祖父と対立しようとしたのかもしれないし、母自身もそれはわかっていたようだった。だが、聡明な祖母にしては、それはあまり利口なやり方ではなく、そんな無駄なことは祖母はしないような気もする。
母は英語教師の免状を持っていて、非常勤で中学校に勤めていたこともあったが、大半は祖父の小さな病院で医療事務をして働いていた。多分その関係で、当時は死病とされていた結核に感染して、しばらく自宅療養していた。私が小学生か中学生のころだったろう。
医者だった叔母が当時としては高級な薬で治療してくれたりして、結局完治したのだが、もともとは祖父の病院を支えるために働いてかかった病気なのに、その時に、感染を恐れて母を嫌悪し避けた家族や親戚のとった態度が絶対に許せないと一度だけ母は私にちらりと口にしたことがある。
もしかしたら、母はその時に決定的に祖父を見限ったのかもしれない。家族や親族への愛もすべて消したのかもしれない。
母は暖かく強くユーモアにあふれていたが、どこか冷酷で自分勝手なところがあった。それも、骨身にしみついた生まれつきのものではなく、固い決意と意志のもとに守り抜いている生き方のようだった。幼い私を育てながら死と直面した数年間、母は孤独の中で徹底的に自分を守り人を信じない精神を鍛え上げたのではなかったろうか。その中心に誰よりも愛し愛された父である祖父への失望と訣別があったのではなかったろうか。
「一人の誕生日」にも書いたように、晩年の母は祖父の思い出を美化し、「幸福な一生だった」と口にすることで、祖父に冷たかった自分を忘れようとしているようだった。何かをつぐなおうとしていたのかもしれない。それがわからなかった私は、「そんな歴史の改ざんはやめろ。あなたに冷たくされて祖父は本当に不幸な一生だった。私はそれを忘れない」と言ってのけ、母はそれきり祖父の話はしないようになった。母のような苛烈な体験はないくせに、母と同じような冷たさや激しさを私はしっかり持っていたのだ。
祖父の書簡
昨年、体調を崩したのと、老化が進んで来たのとで、私は長いこと放置していた、わが家の家族の手紙や日記を整理しなくてはと思い始めた。勝手に破棄するのも気がさして、私とちがって子どもや孫もいる従姉にとりあえず、見て面白そうなものは引き渡しておこうかと目を通していたら、母あての祖父のハガキや手紙が見つかって、それこそラブレターのような内容に、なるほど母の話は嘘ではなかったと知った。亭主関白で野放図で、でぶでぶ太ってだらしなかった祖父の姿からは想像もできない、若々しさと雄壮さにも圧倒されて恐れ入った。コピーを送った従姉も同様に驚き、イメージがちがいすぎて大混乱しているとのメールが来た。
これがハガキの文面だ。ただし手紙もそうだが、字が読みにくいので私が翻刻をまちがっている可能性もある。祖父自身の脱字も多い。
時は流るゝ日鼠の如くに、百花繚乱たる春も逝った、
我が白川の松は清く、青葉は日に色濃くなる 梅には可愛い實が稔る サクランポーも大きくなつた 庭のツヽジも咲揃ふ 目白と鶯は鳴音を争ふる 身自ら深山幽谷の感がある 先日は故山の模様を詳しく知らして貰つて難有! 長崎は派手だが薄つやろない祭騒ぎをする所だな 華やかな外交舞台に第一線に立つた私にはウルサクテならぬ 宇佐の生活が沁みじみと味える でも幸に元気で集団生活に馴れたそーで何よりうれしい 初めて他人との交際を持ったので心配した 可愛い児には旅をさせよと先人は云ふ 悪いことでなかつた 元も元気でよく勉強をする 父とキャチボールをやつて楽しんでいる 今日別府に一人で遊びに行つた
こちらが手紙。
私の澪子へ
庭の櫻も散つて憂鬱な晩春となつた
朝な夕な若い人達の行末を忍んで楽しみにして居た
失意の結果野趣横溢した白川の畔に入つた父の胸中を察して呉れ
若い御前達の成育をたゞ一線に楽しみにして居たのだ
希望に燃ゑ なすべき仕事がいくらあつても未だ宇佐の霊境に隠遁的な生活に入つた私の境地を
日々の楽しみはお身達と日夜だんらんの楽しみに法悦したのだつた
無理に引連れて田舎に入つた 幾度か恨んだことだろーと思つて居た
先日の御手紙で実は私の境地に合鳴して呉れたことが判つて涙が流れる程悦しい
父は黙々として突進し人生の晩年を辿るのだ
でも胸中の意氣は万丈である 徒に草原に朽ち落ちるものでない
たゞ今日を明日を精進しつゝ進むのだ
父のまけじ魂をうけたる御身達一生懸命人生の華かなコースに突進せよ
敗けるな 勝て 最後の凱歌をあげるまで
弱くては人生は行けない 強く強く生きねばならぬ
幾度か帰り来る御身達を楽しみに待つてる父を忘れるな
山の端に大日輪が昇る時 月光淡く若宮八幡の鎮守の森にあがる時 御身達を忍びつゝ待つて居ることを注意
一、過度の勉強をするな 御前は眼を大事にしなければならぬ 光線を考へよ
一、姿勢を正して勉強せよ増築の室も日々工事が進む
仕事は日に忙しい でも元気でやつてる
庭もよくなつたよ 庭のヤマモも眞赤に御前の帰るのを待つて
タケも元氣だ 鳥は朗かに春を歌ふ
今日は之れで 散文的だが
元気でやれ
健康を忘れるなサヨナラ
父より私の大すきの澪子へ
南生子へもよくよく氣をつけてやれ
両びサヨナラ
母の日記
その少しあとで、祖父の死んだ年の母の日記が見つかった。日記帳がなかったらしくて、日常のかんたんなメモ風のものだ。これも祖父の手紙といっしょに従姉に送ろうかと思いながら目を通すと、日記だから無理もない、見る方が悪いのだが、寸鉄人を刺すような悪口がちょくちょくあって、私も親族もしばしば槍玉に上がっている。従姉をはじめ親戚一同の暖かさやおおらかさや強さは知っているつもりだが、これは刺激が強すぎるかなと迷いつつ、まだ手元においている。
祖父が叔母の病院に入院してから死ぬまでの母の記述は、感傷のかけらもなく、
「爺さんが中風が出たのか体の自由がきかない 遂に待望の日が来たようだ ばあちやんと葬式の話をする」
「朝南生子(叔母のこと)が来た 爺さんを車で連れて行った」
「爺さんは車の中でヘドを吐いたそうだ 爺さんの居ない我が家はまさに天国 第一おばあちやんのグチを聞かなくて済む」
「秀ちやんに爺さんの死期が迫っていることをしらせた、夜南生子から電わで又少々持ち直しそうとの事、余り寒くならない内に消えて貰はんと皆に迷惑がかかると思う」
「爺さん遂に死す 午後7時30分」
などなど、徹底的に冷酷で残酷で、いっそ吹き出したいぐらいである。祖父の手紙から察するに母も優しく熱い手紙を出していたのは予想できるし、そんな二人がここまでになるかと思うといろいろと感無量だが、最後の最後までいちゃいちゃべたべたされるより、それもかえって、どこかさわやかでいいかもしれない。
編物三昧
母のこの日記の中心は、祖父のことなどよりむしろ、パートでやっていた編物のノルマを必死でこなす奮闘記である。その仕事は何年も続き、大学教員になって、たまに帰省する私に「あんたも手に職をつけていた方がいいよ」と母は真顔で忠告していた。政治家や金持ちはバカにし、学者と芸術家は尊敬していた母なのに、身内となると学者の価値も下がるものらしかった。
パートで提出するのとは別に、母は自分の作品としていつもひとつを余分に編んでいたようで、さまざまな意匠のセーターやベストや子供服が残っている。母が適当に配色やデザインを変えたものもあるのか、どれもお洒落で、何より暖かい。しかし手洗いをするとてきめんに縮んでしまうので、クリーニングに出さなければならず、なかなか思いきって着たおせない。
衣装缶の二つ弱をいっぱいにしている、それらの母の作品も私の死後は処分される可能性が高い。それもやむを得まいと思っていたが、このような日記が出てくると、ふとまた遊び心かいたずら心がわいてきた。祖父の手紙と母の日記とこの編物の山を三点セットにして残しておいたら、面白いのではないだろうか。そんな、よからぬことをまた考えてしまうのである。(2022.3.21.)