「お茶しようぜ」のラストとか
「しんぶん赤旗」の連載小説「お茶しようぜ」は、特に盛り上がりもないまま、のどかに終わった。そこがよかった。私はこのラストが気に入っているが、作者がこれが最初からの予定だったのか、何か事情があって切り上げたのかはわからない。でも、昔読んで、あらかた忘れた文学論の中にあった、物語が終わっても、作品世界がどこかでそのまま続いていて、時が途切れない感じを読者に与える、というたぐいの小説(多分、ミュア「小説の構造」の中の「年代記小説」というのだったかな。こちらのテキストの中の第三章の6あたりにあるので、探して下さい。笑)って、こういう感じじゃないかなと、ちょっと思った。
登場人物三人が抱えている職場や身体の状況は、最後まで別に好転も悪化もしない。ひょんなことから、最後に近く加わる四人目の若者は、まだ大学生で、三人が渦中にもまれているような社会には、まだ加わっていない。しかし、彼は有名大学の名門ラグビー部に所属していて、後輩へのパワハラや暴力にも、それが伝統だったから自然に参加していて、その肩書で先輩のつてで、何の心配もなく就職できるはずだったのだが、後輩の一人の告発によって、その実態が明らかになったとたん、大学もメディアも社会もネットも、こぞって彼らを攻撃し、炎上し、今は就職もおぼつかない最低最悪の状況にある。
林真理子さんが学長をしていた大学で、やはり運動部の暴力が問題になったことがあった。私は林さんの作品は面白いけどなんだかもぞもぞすることが多くて、多分ファンとまでは行かない。それでも彼女のどういうか文学者魂や人柄は根本的には信じていたから、彼女が学長でも運動部の力には手を出せなかったことは、よほど聖域だったのだろうと理解もしたし同情もした。
それも思い浮かべながら読んでいた。彼は伝統に従い、社会も世間もそのような運動部のあり方を認めて評価していたのに、一気にがらりと態度を変えて、自分たちが悪者になってしまったことに、とまどい、脅え、激しく怒っている。三人の会社員ののほほんとしたお茶会にいらだち当惑しながらも、短時間の間に、そこに加わることで、彼は救いを見出し、現状と向き合う力を取り戻しかけている。その様子も例によって、あっさりとだが、わかりやすく、自然に納得できる。
何の役にも立たず、ぼやきあうだけのお茶会。いつなくなるかわからない、心許なさで、それでも細々ずるずると続く、無関係な「個」の、無力な共存と連帯。踏み込みも、呼びかけも、議論もないままの共存。でも、それを読んでいく内に、私は自分が分裂して、彼らの人生に入り込んで行ったように、彼らを通して、今の社会の知らなかった現実の数々にふれた。そのことを深く感謝している。
昨日は夕方から国会中継で、共産党の山添議員が質問しているのを、つい見てしまい、今日は民放で福岡県議会の問題について二時間、特別番組をやっていたので、それもつい見て、また仕事は進まなかった。やれやれ。
しかし、山添議員は、質問の中身も構成もまったく無駄がなく、政府や首相がだらだら関係ないことをしゃべって時間稼ぎをする対策を考えていて、短い一問一答をくりかえしながら、パッチワークのように政府の大きな問題点を最後には描き出してみせるという、マジシャンのようなことをやってのけて、将棋かチェスの試合を見ているように迫力があって、うっとりした。もちろん「しんぶん赤旗」も大きく紹介していたが、あのかっこよさを何とかうまく表現できないものだろうか。ぬるぬる逃げ回って返答をさけてごまかす政府や首相のすっからかんの回答から、動かぬ発言をすかさず引き出して言質をとりつつ、深追いはせず切り上げて、聞く者にわかりやすくくり返して確認して行く手腕には、そんじょそこらのスポーツのファインプレイにもまさる切れ味のよさがあった。
それにしても、首相をはじめとした政府側の回答は、いつものことだが、まったく相手の質問をはぐらかそう逃げようとするばかりで、それはまあ、ろくでもないことしてるのだから気持ちはわかるし無理もないが、これだけ人の意見や発言をちゃんと聞かずにピント外れなことばかり言っていたのでは、最初は逃げるとか隠すとかいう理由があったかもしれないが、もはやだんだん、そもそも人の意見を聞いて理解する、ちゃんと筋を通した議論や回答をする、という能力そのものが、退化して失われて行っているのではないかと、こっちが心配になってくる。
まあ、世の中には、人の書いたものや話すことを、どう耳にし目にしているのか、こっちが想像もできないほどに、読みちがえ、聞きちがえ、あんたいったい何を見たんだ、もう一回か十回か、目と耳をかっぽじって人の発言読み直してから出直しやがれ、とこっちが唖然とするほどに見当違いな反論をしてくる人はそこそこいるから特に驚きはしないが、いくら何でも国のトップがそれなのは、ちょっと危なすぎるんじゃないだろうか。
ついでにちょっと思い出した、先日のアウシュビッツの特別番組について。前にも言ったように、コメンテーターのタレントさんは、まじめでとてもよかったけど、収容所にだまされて各地から連れてこられたユダヤ人が、列車から降りるのを三回とも「汽車」じゃなくて「電車」と言ってしまってたのは、ちょっと笑った。時代の流れを感じてしまった。
そして、前からずっと思っていたのだけど、こんなにヨーロッパ全土から、「快適な居住地がある」みたいなこと言われてだまされて羊のように集められてしまったユダヤ人も、その回りの人たちも、収容所がこれほど悲惨な場所だという情報が、いったいまったく噂でも風の便りでも伝わらなかったのか、調査に入った組織や人道団体も、嘘八百の報告や写真でだまくらかされたのか、とふしぎで、今はこうじゃなかろうとぼんやり考えていたのだけど。
国会周辺でも繁華街でも全国でも、連日「高市やめろ」のデモが続き、昨日だっけは一万二千人ほどが抗議に集まったというのに、いっさいかけらも報道しないマスメディアのことを思うと、今も昔も似たようなもんじゃないかと、ぞっとして、腹が立つ。何てこったよ、ヒトラーの時代を笑えないよ。
まさかと思うが、フランスやイタリアのように、デモや集会が暴力化するのを待ってるのではあるまいね? そうなるのが、一番心配だし、そうなるのも無理がない一方、そうなるように画策する人たちだっているかもしれないし、本当に気をつけてほしいと願う。そして、メディアがそうなることを待っているとしたら、それはもう、最低だからな。言うまでもなく。
