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「ダウントン・アビー」断想(10)

「画面には出ないけど、どんな人か気になる存在」、以下は端役過ぎて、「そんな人いた?」「それ誰?」と言われそうだが、気になるっちゃあ、気になるじゃないですか、という人たち。

まず、マシューの母で、パワフルで聡明にして、先代伯爵夫人のよきライバルである、イザベル・クローリーに求婚して、紆余曲折ありながら最後はハッピーエンドを二人でかちとる、リチャード・マートン卿の、とっくに亡くなってる先妻。
マートン卿は最初の登場の時から、外見も内面もカッコいい老貴族だし、イザベルへの愛も誠実でいちずで申し分ない。この二人の結婚の障害といえば、それはただもう、マートン卿の二人の息子で、弁護士と銀行員か何かのエリートだが、ちょっともう非の打ち所なく、いやなやつらである。差別意識にこりかたまり、礼儀をわきまえず、冷酷で非常識である。

マートン卿は最後に「黙れ。息子としておまえを愛しているが、人間として好きになれん」という名セリフを吐いて、息子と決別する。彼は息子には厳しいし、好きでもないが、それなりに愛しているし、息子もまた父のことを嫌っているわけでもないし、それなりに好いてもいそうだ。というより、亡くなった母を誇りにしていて、愛してもいるのらしい。そういう点では伯爵の一家とちがって、排除と差別というかたちでしか、愛情を持てない息子たちであるとも言えよう。

マートン卿はそんな息子たちを「彼らはあらゆる点で母親そっくりなんだ」と的確に把握しており、イザベルや先代伯爵夫人との談笑の中でも、自分の結婚は幸福ではなかったこと、おたがい努力はしたが幸せにはなれなかったことを正直に述べている。二人の不仲は人々の間では周知の既成事実だったことは、クルックシャンク夫人のことばなどからもうかがえる。

マートン卿の屋敷は美しい庭のある立派な邸宅だが、応接間が玄関に近いので寒い。そこはマートン卿の母が好んだ部屋だが、妻はめったに使わなかった。だが、マートン卿はその部屋の女性らしい調度や雰囲気を愛していて、イザベルたちに、「この部屋は女性がいて初めて生きる部屋だ」と語る。ダウントン・アビー自体、屋敷の名前で、魅力的な城や屋敷が多く登場するドラマだが、マートン卿の妻や母との関係を表すのに、この館や部屋の使い方も実に効果的である。

それはともかく、息子たちを通して、これだけ強烈な印象を与えてドラマに影響を残す、マートン卿の先妻とは、どういう女性だったのか。マートン卿の孤独な長い過去と、暖かく力強いイザベルへのゆらがぬ愛が、登場しなくても深く納得し理解できるような気がするほどに、この先妻の存在は大きい。

家政婦長のヒューズさんは、おそらくこのドラマで最も好感を持たれる一人だろう。彼女は終盤に近く、執事のカーソンから、退職後に共同名義で家を買ってホテル経営をしないかともちかけられる。彼女は心惹かれるが最後には、自分には実はそれができる蓄えもなく、経済的な未来の展望もないことを打ち明けて、計画に加われないことをわびる。その理由は知的障害のある妹がいて、今は母が面倒をみてくれているが、いずれは自分が世話をしなければならなくなるからだと言う。

ドラマを見直すと、一度「妹がいる」というセリフはあるが、それ以外には何の伏線もなく、この展開はちょっと唐突な感も否めない。だがまあ考えて見れば、自分のそんな状況をいっさい見せないのもヒューズさんらしいし、彼女が使用人たちを厳しく指導しながらも、弱い者や異質な者、新しい傾向に対して、いつも前向きで寛容で理解を示して支えるのも、妹という弱者の存在を常に抱えて生きているからかもしれないと思えば、この設定は彼女を理解し、ただの有能な聖人というだけではない厚みを持った描写をも生む。

カーソンはこの告白を受けとめて、あきらめずに前向きに彼女との関係を深め、二人は幸せになる。妹をどうするのかの話はその後も出ないままだが、二人ならきっと何とかするのだろう。徹底的にひかえめながら、ヒューズさんをかたちづくる一部として、この妹の役割も決して小さくはない。

華やかな長女メアリーの影で、なかなかぱっとしないし華やかにも幸福にもなれない次女のイーディスは、しかし常にめげることなく姉以上に四方八方に暴走気味の努力を続ける。小作人とのつきあい、老貴族へのアタック、職業婦人への挑戦と、あらゆる果敢な冒険を恐れない。実際彼女は能力があるし、美しくもある。姉への劣等感と対抗意識が、その魅力を増しているのか壊しているのかは、判断が難しいところではあるが。

彼女は屋敷を離れた世界のロンドンで、雑誌のコラムを執筆する仕事を通して、編集者のマイケル・グレッグソンと知り合い、愛し合う。しかしマイケルには精神障害の妻がいて、法律で離婚を許されていない。妻はもうマイケルのこともわからなくなっているのに、離婚は許されないのである。それが法律で認められる国を探して、マイケルはドイツ国籍を取得しようとするが、そのための旅先で、当時勃興しつつあったヒトラーの支持者たちとトラブルを起こして行方不明となり、すでに子どもをみごもっていたイーディスの長く続く悩みと苦しみを生む。とは言え、渡独前に出版社の権利をイーディスに譲渡していたため、彼女はその仕事を引き継ぐことに生きがいと活路を見出し、やがて思いがけない幸せをもつかむ。

マイケルは誠実だし有能だし、魅力的でもある。だからイーディスと幸福になってほしいのはやまやまだが、ふと気になるのは、完全にその幸福への障害物としてしか描かれていない、精神障害の妻のことである。マイケルは彼女についてほとんど何も語らないし、イーディスも聞こうとしないし、マイケルの失踪後も、妻がどうなったのかどうしているのかという話は誰からもまったく出ない。

まあそこでイーディスが、マイケルの妻のことを気にして、消息を知ろうとしたり会いに行ってみたりするというのも、ある意味イーディスらしくないからいいけどね。彼女は長女のメアリーとはちがった意味で、どこか傲慢で鈍感で、差別意識というよりも自分の目的と欲望のためなら、人の不幸や悩みなど気にしないというか気づかないところがある。子どもを預ける小作人一家に対する態度でもわかるように。
だから、マイケルの妻のことなどかけらも考えないのは不思議ではないが、こっちはちょっとその分、気になってはしまう。マイケルの失踪も死も、彼女は何も理解できなかっただろうのは救いでもあるが、いったい家族や友人知人はいたのだろうか。どんな人生を送ったのだろう。

最後はスワイヤー氏。「誰それ?」と言われること必定だが、一時期マシューの婚約者だった薄幸なラヴィニアの父親である。彼女がスペイン風邪で亡くなり、マシューがメアリーと結婚した後、スワイヤー氏も病死するのだが、思いがけない多額の遺産をマシューに残し、「受け取れない」と悩んだマシューも結局は納得して、結果としてはその遺産が破産寸前だったダウントン・アビーと伯爵家を救う。
経済的にはものすごく大きな意味を持った、この展開だが、私が気になったのは、ラヴィニアはしょっちゅう伯爵家に滞在しているし、スワイヤー氏自身もたしか何度か訪れているのに、断固として一度も姿を見せることなかった、すれちがいの接近遭遇の描かれ方だった。すでに死んでいるマートン卿の先妻や、遠くにいる人とちがって、これだけ密接に出入りしながら、一度もちらとも現れないのは、なかなかである。

ラヴィニアはあらゆる点で善意の優しい女性であるだけでなく、聡明で彼女なりの誇りを持っている人でもあった。そりゃメアリーなどよりも人としてよっぽど上等ではある。インパクトや華やかさでは勝負にならないが。
こんな優れた女性を育てた父はどんな人か、もうちょっと知りたくなる。しかし一方で彼はスキャンダルや犯罪に巻き込まれかけたとき、ラヴィニアが警察などと取引して父を救ったこともあるようだから、案外頼りない、考えの足りない人で、ラヴィニアの方が父を支えて守っていた可能性もある。娘の死は彼にとって大きな打撃で、その最期を早めたのかもしれない。そういう空想をいろいろとめぐらせたくなる人物でもある。

「ダウントン・アビー」は、このように、あの手この手で人をかくしまくって、見る者の想像をたくましくさせるが、常にそうだというわけでもない。メアリーの求婚者の一人で、婚約者がいながら、なかなかにあきらめないギリンガム卿の、その婚約者メイベル・レイン・フォックスや、かつての先代侯爵夫人の恋人でロシアの亡命貴族クラーギン公爵の行方不明の妻など、まず登場しそうにもない人が、あれっというほど簡単に出て来たりする。しかもあんまり魅力的でも印象的でもなく、どっちかというと「こんな人?」と見る方を軽く幻滅させるような描き方をされてる気がする。

実際に目に見えるよりは、想像しておく方が素敵じゃないですか?と、それとなく制作者が伝えているのだとすれば、それもなかなか、心憎いが。

あっ、しまった、もう一人(二人?)いた。
先代伯爵夫人宅の執事スプラットと侍女デンカーの掟破りのバトルもいろいろ笑わせるが、デンカーが来る前の侍女はポッターさんだっけ、スプラットに完全に従っていて、非常にうまく行っていたらしい。でも、この人も、同じくうまく行っているらしい料理人の女性も、これまた一度も顔を見せない。どんな人たちだったのか、ちらと見てみたくなる。
どうも先代伯爵夫人宅のメンバーって、少し謎で、たしか最初のころ一度だけ、窓辺に黒っぽい猫がいたと思うんだけど、それきり消えたし話題にもならない。あれは私の幻覚かしらん。 

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カツジ猫