「ダウントン・アビー」断想(8)
ヘクサム卿ほどではないけれど、「画面には一切出ないけど、すごく存在感のある人物」としては、侍女のバクスターさんの昔の同僚ピーター・コイルもそうだろう。
バクスターさんは、後半になって登場してくる侍女で、「あなたのような非の打ち所のない侍女はいない」と伯爵夫人のコーラに言わしめたほどに有能で、ひかえめで、行き届いた女性である。もう若くはないし、ひたすらに地味で目立たず、いつもミシンでひっそりと縫い物をしている。
彼女を推薦したのは、このドラマではけっこう悪役の野心家トーマス・バローで、彼はバクスターさんの弱みを何かつかんでいて、彼女を利用して屋敷のさまざまな情報を探ろうとしている。
その弱みというのが、かつて立派なお屋敷の侍女だった彼女が、何と女主人の宝石を盗んで泥棒のせいにしようとして失敗し、逮捕されて懲役刑になったという秘密の過去である。しかも盗まれた宝石は出て来なかった。同僚のピーター・コイルが彼女を誘惑して犯罪を犯させ、自分が宝石を受け取って姿を消したのである。自分の愚かさを恥じたバクスターさんは、コイルのことを警察にも言わないまま、一人で罪を着た。
そういう過去もあるし、バローに協力したくもないから、バクスターさんはいつでもどこか憂わしげで哀しげだ。だが、それがすごいのだが、決してただ暗いのではなく、どこか明るくて希望にみちた表情もしている。ランプの光が暖かく燃えるような、力強さが内部から放たれている。それは彼女が刑をつとめて、二度と過ちを犯さないという決意をしているからかもしれない。ともあれ、演技なのか、こういう役者を見つけるのか、そういうことが浮かび上がる見た目になっているのが、すごいっちゃあ、すごい(演じているのはラケル・キャシディ。実物を見ると、ますます演技のすごさがわかるな)。
バローは彼女を脅迫して情報を得ようとし続けるが、彼女は他の使用人からも好かれ、特に人のいいモールズリーから好意を寄せられ、その助けもあって、秘密をばらされる前に女主人のコーラに自分の過去を告白し、大きなショックを受けながらも結局彼女を信頼して雇い続けるコーラによって、バローに支配されない、安定した立場を得る。だが、その後も孤立するバローを支えたり、あらゆる人を影に日向に救い続けて、目立たないが一家の幸福に大きく貢献する善意と献身の象徴的な存在になる。
そんな時にピーター・コイルがまた同じような犯罪を犯し、共犯の女性に罪を着せて自分は無罪になりそうなので、彼の手口を証言してその正体を暴いてくれないかと警察から依頼が来る。自分の過去を恥じて忘れたがっている彼女は強く拒否するが、コイルが何度も同じことをくり返し、死んだり娼婦になったりした女性も多いと聞いて、もう自分のような犠牲者は出したくないと、証言することを決意する。
彼女を愛して支えようとする、見た目は全然ぱっとしないモールズリーさんは、コイルが多くの女性をたぶらかして犯罪をくり返していると聞いて、「コイルという人は、さぞかし色男だったんだろうねえ」と聞き、バクスターさんは「悪魔のような男よ」としか答えない。その後、証言の決意をしてモールズリーにつきそわれて裁判所に赴くが、彼女が証言すると聞いてあきらめたらしいコイルが罪を自白したため、証言はしないですむ。したがってコイルも画面には登場しない。
ほっとしながらもバクスターさんは、かえって気持ちの整理がつかず、まもなく服役したコイルから面会に来てくれという手紙が来たとき、「会って、もう自分が彼に左右されないか知りたい、けじめをつけたい」と悩む。モールズリーは強くとめるが、彼女はなかなか決心がつかない。結局最後は、彼女に危機を救われたりして次第に性格が変わって行くバローが「会うべきじゃない、モールズリーが正しい。コイルを切り捨てて前に進め」と忠告して、彼女も吹っ切れて、それに従う。
というわけで、コイルは一度も登場しない。
コイルにたぶらかされた若い日のバクスターさんが、どんな女性だったか、逮捕や服役が彼女の性格や外見をどう変えたのかはわからない。「私は昔の私じゃない」と彼女自身が言っている。
何人もの女性の運命を変え、もてあそんだピーター・コイルの魅力とはいったいどんなものだったのだろう。カリスマ性があったのか、庇護してやりたいタイプだったか、セックスアピールがずばぬけていたのか、大変な美貌だったのか、モールズリーさんならずとも気になるところなのだが、回想場面などはおろか、どんな手がかりもドラマは私たちに与えない。
これもなかなか、大胆で心憎い演出だと思う。そして、ヘクサム卿とバーティ・ペラムの場合と同様、コイルの存在を浮かび上がらせるのに重要なのは、バクスターさんの演技と存在感である。彼女の傷の深さ、まだ呪縛から解放されていないのではないかという不安、自分は生まれ変われたのか、昔とどこがどう変わったのか、そういった心の揺れのすべてを、私たちに伝えるのは、バクスターさんの表情やたたずまいでしかない。それをしっかりやってのけるところに、ゆらがぬ女優の実力がある。
こういう人はあとまだ数人いるのだが、あまり長くなってもいけないから、次回はそれをまとめて紹介しよう。