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「日本辺境論」によせて(2)

2 女性の一人称代名詞

ざっくりした感想は前にも書いたのだが、その時予告したように、いろんなことを、もうちょっと詳しく述べる。
とにかく、これは、とても立派な上に、とてもわかりやすい本なので、感想とか私が書いても、これ以上面白くもわかりやすくもならない。もとの本を読んでもらう以上のことは何も書けない。
だから、ただ、読んでいる内に触発されて、頭に浮かんだことを断片的に書くだけだ。

簡単なことから言う。まず日本語という言語について。
その特徴のひとつとして、一人称代名詞の使い分けの難しさについて、述べられている。わかりやすくて具体的で面白い。でも、これはわりとよく言われることで、私もよく目にしていたことではある。ほとんど皆の常識だろう。
それでも、内田氏がこれだけ重要なこととしてとりあげてくれたおかげで、逆に初めて私が意識したというか発見したことがある。
それは、男性だけの問題で、女性にはほぼまったく関係ない。

大ざっぱだと断りながら、その実、まったくすみずみまで行き届いてすきのない内田氏の記述が、これについて一言も触れておられないのは、意識してとも思えないので、やっぱり気づかれなかったのだろうか。何しろ私も一度も考えたことがなかったから、ひょっとしたら、そうかもしれない。

それなりに意識はしていた。授業ノートで「男と女のことば」というテーマをとりあげた時も、方言に関しての記述などに、そのことをかすめたような文章はある。それでも、真正面から見つめてはいない。
「従順すぎる妹」という学生運動をテーマにした小説を書いたときは、主人公の男性の一人称を、成長するにしたがって、僕から俺、そして私へと変化させた。それは主人公のイメージを作る中で、ごく自然に生まれた表現だった。

翻訳小説を読むときに、フランス文学の場合、たとえば少年たちが年長者との関係などで、親しい相手との一人称「テュ」と、よりきちんとした「ヴゥ」のどちらを使うか意識して、時に悶々としている描写などをよく読んで、漠然とそういう微妙さを感じとっていたことはある。でも今思えば、多分あれも男女ともに共通してるんだよね。

最近読んだ、若い野球選手たちの雑誌の対談などは、その気になって読むと、目が回りそうなほど、かわいそうなほど、うらやましいほど、彼らは一人称の名称をあれこれ使い分けている。気楽な相手だから「私」はないが、「僕」「俺」がほとんど数行ごとに入れ替わる。時に「オレ」がまじり、おそらく今ではこれに「自分」が加わる頻度も実際には多いだろう。

ただ、「俺」「オレ」の表記の差でも推測できるように、これはテープ起こしや編集の際に、雑誌側が当人たちやその場のイメージに合わせて改変している可能性も高い。
昔、「グラディエーター」の映画にはまってファンサイトで他の方々とやりとりしていたころ、私たちがしばしば憤慨していたのは、主役の俳優ラッセル・クロウが実際には知的で冷静で、かなり高度な演技論を語っているのに、あらゆるインタビュー記事は彼の荒っぽい野性味を強調しようとして、絶対に「俺」で語らせていることだった。他の俳優の多くは「僕」か、時には「私」でさえあったのに、そのイメージの押しつけというか塗りつけに、いつも怒りを覚えていた。

似たようなのが、映画に登場するゲイの男性のしゃべらせ方で、普通にしゃべっていても、いわゆるオネエ言葉にしていたものがほとんどだったが、この話はややこしすぎるので、またにする。

女性の場合、よっぽどたまに、「僕」を使ってみる若い人がいるし、「あたい」「あたし」「あたくし」「わたくし」もないわけではないが、男性と比較して、一般的な場合は「私」以外で、まず迷うことはない。私の場合、時にべらんめえ調になると、「あたしはさあ」と言う時もあって、もしかしたら併用と言っていいほど多いかもしれない。しかし、書き言葉では、まずもう選択の余地はない。
「~だわ」「~なのよ」のいわゆる女ことば自体、今ではほとんど使う人がおらず、女性に関しては、特有の表現はかなりなくなって、むしろ公用語っぽいものが主流になって来ている気がする。

3 「である」と「ですます」

もうひとつ別のことだが、「である」と「ですます」調について。
私はレポートの指導などでは、もちろん学生に、これはどちらかに統一するように口をすっぱくして指導するし、事実今の学生はそれをきちんと使い分けて、まずまちがえない。
私自身も、もちろんちゃんとした文章では、両者を混在させたりはしない。
だが、こうやって、ブログを長いこと書いていて、一つ発見したことは、いつの間にか、きわめて、ごく自然に、「である」と「ですます」を行ったり来たり自由に往復しながら、文章を書けるようになって来たことだ。

最初は気をつけたり、直して統一するようにしていたが、だんだん、それが面白くなった。そういう書き方、流れ方でしか書けない内容や気分があると感じるようにもなって来た。
だから、ある時期からは、意識的にそれを解放した。
もしかしたら読んでいて、気に触っている人もいるかもしれない。いないと思うが。多分。

今では私の中では、「である」「ですます」の混在と一行ごとの交代や選択は、文章表現の一部として、定着するまでになっている。
最近の「侍の名のもとに」の感想もどきは、もどきと銘打ってはいても、一応れっきとした鑑賞と分析に基づいた作品論の枠組みは守っている。映画「クイック・アンド・デッド」の感想なども基本的にはそうだ。
だが、その文体は、私が本来、論文めいたものに用いるものと異なり、「である」「ですます」調の混在を許している。

大風呂敷を広げるならば、これは私が意識的に開発した、これまでの日本語になかった新しい文体だ(いくら何でも広げすぎ)。
「そうだ」「ずうっと」だけでなく「そーだ」「ずーっと」の表記がいまや市民権を得ているように、いつかは、この新しい文体も、まっとうなものとして、定着して行くだろうと、それまで生きていられるかどうかは知らないが、私は確信している。

あ、そうそう、「しんぶん赤旗」はどういうポリシーでかは知らないが、現在では最高と言っていい質の高い情報量で硬質で堅固な論調の紙面を作っているのも関わらず、断固として昔から「ですます」調を守っている。私の文体も、いくぶんかは、その影響を受けたかな。「ですます」でも、すぐれた高度な論は展開できるという確信を持たされたという意味で。(つづく)

ちなみに、学生の皆さんへ。この「である」「ですます」混在は公式には通用しない文体なので、他の先生の授業ではもちろん、私の授業でもレポートで使用したら、減点対象になります。気をつけて下さいね。

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カツジ猫