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『大才子・小津久足』感想(15)

事務連絡を少々

この本の著者の菱岡憲司氏の基調講演で、オンラインでの国際研究集会が行われます。ぜひご参加を。研究者の方はもちろんですが、郷土史家やさまざまなカルチャーセンターや読書会の関係者、参加者の皆さまにもどうか参加していただきたいです。詳しい理由はまたあとで申します。

その研究集会の主催者でもある飯倉洋一氏が、この本について克明に行き届いた書評を書いておられます。私の脱線しまくりのおっちょこちょいの感想とちがって、ちゃんとした書評です。ぜひこちらもごらん下さい。

さて、あなどれない第五章

この本の中でかなり大量の部分をしめる第五章は、久足の紀行を引用しつつ、その興味ある記事を通して、江戸時代の地震その他の災害、茶屋のあるじや馬子や船頭など、旅に携わる仕事をしている人の様子、時事問題の噂、とんでもない宿のいろいろ、美しい風景などなど、もともと久足紀行の描写が的確で巧みな上に、その精髄を選択して紹介しているのだから、読み物としてはこんなに面白いものはない。難しい話は苦手という人はもう、旅の雑誌や現代の旅行記に目を通すノリで、この章だけ読んでいただいても、十分にこの本のもとはとれると言ってよい。旅好きな人、江戸時代が好きな人にはこたえられない章である。

雅文ではあっても読みやすい久足の文章の原文も堪能できる。古文を学ぶ受験生や塾の教材としてもとても役に立つ。しかも菱岡君の的確な要約(現代語訳)がついているから、原文がめんどうくさい人は、そこ(原文)を飛ばしたって全然困らない。いたれるつくせりのサービス満載である。

なので、ただもう読んで下さい、と言っとけばいいと実はたかをくくっていた。しかし、いざ紹介しようとすると、これがなかなかまたさまざまな趣向がこめられており、しかも私の方でもいろいろ言いたいことも出て来て、例によってとっちらかり、まとめるのに時間がかかった。というか、まとめきれてない。いつものように、だらだら書くので、お許し下さい。

紀行の紹介は難しい

実は紀行の紹介は難しい。私が紀行を研究しはじめた最初のころ、ほとんど先行論文もない中で、いろんな紀行についての論文を探して読んでいたときに、若気の至りの生意気でいつも感じていたことは、何とみんな面白くない論文だろうということだった。これじゃ近世紀行の研究をする人が出て来ないのはあたりまえだという気もしたし、どうして紀行の研究論文を書く人は、皆こんな投げやりというか、中途半端というか、開き直りというか、芸も工夫も読ませようという情熱も全然伝わらない論文を書くんだろうと不思議だった。ものすごく漠然と、さぞいい人たちばっかりなんだろうとも思った。ごめんなさいごめんなさい平にもうごめんなさい若手の研究者というものはそういうもんです。

だから自分が論文を書くときには、一つの作品について紹介するというかたちを私はとらなかった。本能的に避けていた。代わりに、その紀行の作家のあらゆる作品を読んで、その中で紀行がどういうものだったかを紹介しようとした。つまり、この菱岡君の本のものすごく小型のことをしようとしていたわけだ。

このやり方がわりとうまく行ったのは、江戸時代の紀行作家の多くは、特に私が注目した地誌的な紀行の名作の作者たちというのは、紀行以外にほとんど著作を残していなかったからだ。「東西遊雑記」の古川古松軒にしろ、「未曾有記」の遠山景晋にしろ、「東西遊記」の橘南谿にしろ、その紀行がすなわち代表作で、他の文学作品はほとんど残していなかった。だから、その著作を全部チェックしても、それほど途方もない作業ではなかった。
 それを言うなら貝原益軒だって、いや小津久足だって、文学作品に限ればそれほど多いわけではない。久足の場合は和歌があって、それを見逃さず当初から紀行とともにとり組んだ菱岡君はさすがというか無謀というかだが、これはむしろ代表的な紀行作家としては珍しいような気がする。
 とは言え、私も一応は益軒の教訓書から哲学書から日記から、福岡のいくつかの図書館に保存されている彼の膨大な書簡から、すべてに一応目は通した。「益軒のことなら何でもわかるようになって下さい」と言われた中村幸彦先生のことばを守るなら、そうするのが当然と思っていた。
 それでもこれが馬琴とか京伝とかのように大長編が山ほどあったら、さすがに一生かけてもこの方法は無理だったろう。合巻や読本を研究される方々は、皆さんきっとそれなりの方法を模索し構築しておられるのだろう。

もうひとつ私が試みたのは、女流とか九州とか蝦夷(北海道)とか東海道とか木曽路とか参詣記とか採薬記とか富士登山とか、どうやら数が多そうなグループを見当つけて、そのジャンルの紀行をできるだけ読んで大まかな傾向を示すという方法だった。このやり方で私が気をつけたのは、例えば東海道と木曽路をやったからには、他の街道もすべて考えてみようとか、九州と北海道をとりあげたからには、東北と近畿と四国というように全国を見ようとか絶対思わなかったことだ。そのように、ベタな「そろえて見ましょう」シリーズにしたら、ものすごくつまらなく、ろくでもないことになるという予感がした。少なくとも私は絶対そんなシリーズは読みたくないと感じた。だから、一見、統制がとれてなくてバラバラな基準のグループわけを選んだ。これも中村幸彦先生が何かの折に、「ていねいな細かい目録ほど使いにくい」と言われたことと、どこかでつながっているかもしれない。かたちにこだわり事実を無視して作り上げたものは結局実用に役立たない、というような意味で言われていたように思うのだ。

思えば私も、子どものころから大学生ごろまでは、図鑑とか辞書とか、まんべんなく行き届いて美しい形式に整ったものが好きだった。論文や評論も理路整然としているものが好みだった。というか、頭がそういうものでないと受け入れないようになっていた。(ここだけの話、「一番影響を受けた論文は」というたぐいのアンケートに、幸い答えるはめにはならなかったけれど私はいつもびくびくしていて、それはどう考えても私のそれはエンゲルスの「家族・私有財産・国家の起源」とマルクスの「反デューリング論」でしかなかった気がしていたからだ。)
 だから中村先生の論文などには、最初当惑して、なかなかついて行けなかった。分類や図式が整ってなくて、「第一に」とか「ひとつには」とかあるのに、二つ目は結局出て来ないといった展開が随所で私を苦しめた。だがこれがなぜか不思議なことに、講義を聞くと、いつもすっきりしっかりみごとにすべてわかるばかりか、勉強しようがんばろうという意欲までが湧き上がって来るのだった。私は自治会活動にかまけていて、ろくに講義に出席してなくて、それでもそうだったのだから、ちゃんと全部出席していたら、人生変わっていたかもしれないと思うぐらい、それは不思議な力だった。

もしかしたら中村先生は、論文はちゃんと勉強している人を対象として、授業はもっと未熟な初心者を対象として使い分けておられたのかもしれない。そして当時の私には、初心者や素人向きのお話しか理解できなかったのかもしれない。
 そういう意味では直接にお教えを受けたとは言えず、むしろ自分自身の手探りの作業の中から導き出したものだったのかもしれないが、いつの間にか私は、理路整然のまんべんなく整ったものよりも、見てくれは少々悪くても、現実に使い勝手のいいものがすぐれているし、正しいのだ、という感覚を身につけるようになっていた。
 言ってみれば、勝手にひとりで、山道をさまよっていて、何とか広い街道に出たら、中村先生と鉢合わせしたという感じだったのかもしれない。

ちなみに前にもどこかで書いたが、菱岡君は、学部の学生で私の研究室にいたころ、中村先生の論文を読んで感心し、「もっとこういう論文はないのですか」と私に質問に来たことがある。あいつは私に理解できなかった中村先生の論文の立派さが、もうこの年で、私が教えもしなかったのに(自分がわからないのだから教えられるはずがない)わかるのか、と彼が出て行ったあとの研究室で、私はちょっとがっくりした。

どうせ終わらないから、また無駄話

第五章の紹介はまだ続くのだが、長くなりすぎたから次回に。ついでにまた関係ないような、あるようなことを書く。
 「見た目きれいで整ってるが、ものの役には立たない」ことの実感を、研究以外の方面でしみじみ感じたのは、名古屋の大学に勤めていたころの文科省とのやりとりだった。そこは短大と四年制大学が併設になっていて、もともと母体は短大で、大学者の先生も昔はいらした伝統あるところだった。だからカリキュラムその他が、最近の短大とはちがって、四年制大学に近く、教員も兼任で、何の不具合も不都合もなかった。
 文科省は、毎年その、普通の短大とちがっている点のいろいろを足並み揃えて他と同じようにするよう指導してきた。こちらは何の不便も不満もない、むしろ最も効率的で無駄のないシステムを、どうして変えなければならないかわからず、質問しようにも事情を説明しようにも、こちらからコンタクトをとる方法はないのだった。今考えてもアホかいな。なぜそうしたがるのかの理由も、だからよくわからなかったのだが、どうもそういう、お役人としては見た目がきれいでそろっているのが書類の上で見ていて快いから本能的にそうしたくなるのではないかとこちらが推測したのだったと思う。もしかしたら、実際に手間が省けるとか文科省の仕事の都合もあったかもしれないが、それにしても根本的に優先順位がちがうだろ。少々見た目が悪くても、一律にそろってなくても、現場がもっとも活性化するし合理的でもあるシステムを維持するために粉骨砕身、邁進するのが、上に立つ者の唯一無二の勤めじゃないか。と生意気な新任教員の私は思い続けていた。
 このブログでの長ったらしいエッセイ「大学入試物語」に、そのときのことは詳しく書いている(「上意下達もほどほどに」の項)。これが昔話で今はちがっているならめでたいが、きっと逆に今の方がもっとひどくなってるような気がする。そしてこの、「表面はつるつるすべすべきれいで、でこぼこもゆがみもないが、実際にはものすごく不合理で使い勝手が悪い」事象は、大学内にも逆輸入されている可能性さえある。

それでまた、関係ないことを思い出したが、実家の回りは田舎で一面の田んぼで、昔ながらの入り組んだあぜ道や畝がのたくって、入り混じっていた。それである時、圃場整備とやらで、きちんとまっすぐな水路を作ってきれいにしたら、とたんに水があふれたり行きわたらなかったりして、しばらくは相当混乱したらしい。昔のぐにゃぐにゃ入り組んだ溝やあぜ道は実はどの田にもきちんと水がまんべんなく流れるよう、完璧に工夫されていたのが、そうなってからようやくわかったのだという。
 何もかも古い方がいいとは言わない。変化も近代化も必要である。しかし、現場を知らない人が見た目の快さだけで安易に切りそろえたり引き伸ばしたりして規格にしゃにむに合わせる癖は、やはり気をつけておくべきだ。

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カツジ猫