大学入試物語7-第四章 入試が大学を食い荒らす(2)

3 金不足、人不足

この十年から二十年の間、大学は本当に忙しくなっているが、私の周りで見る限りというか、私の職場ではと言うか、そうなるのは単純すぎるぐらいあたりまえで、つまりこの間、大学に要求されることはものすごく増えて、仕事の種類も多岐にわたるようになって、それなのに資金と人材はまったく増えず、むしろ減らされているから当然である。
地域と交流を深めろ、留学生を受け入れろ、学生サービスをふやせ、試験の回数をふやせ、公開講座をしろ、評価システムを作れ、パソコンを導入しろ、などなど要求ばかりが過大になって、それを保障するだけの金や人がまったく増えていない。ある部門が増えたとしたら、それはどこかを削って、そっちに回しているだけである。
同じ(か、少なくなった)人数で増えた仕事に対応しようと思ったら、あたりまえだが一人が数人分の仕事をするしかない。それも単純に、たとえば農園で綿花を倍摘めとかいうんだったら(もうちょっとどうかした例えはないのか)、まだいいのだが、そもそも要求されている増加した仕事の種類がもっと多様で複雑で、もしかしたら、これもまた、仕事がどんなに増えたかを自他ともにあいまいにしてごまかす(意図があるとまでは言わないが)結果になっているのかもしれない。あくまで農園の綿花の例にこだわると、昨日まで一日十キロ摘んでいたのを三十キロ摘めと言われたら、誰でもそりゃ無理ですと言うだろうが、綿花を摘むために農園の道を整備して柵を作って犬を育てて用水路も掃除して入口に花壇も作って管理してとか言われたら、仕事がどれだけ増えたのかが、本人にも他人にもものすごく見えにくいし、対応も抗議もしにくい。

私の大学の場合、結局そうやって人も金も増えないままに増えた仕事を処理するために、あれこれ対応した結果の一つとして、組織やカリキュラムがものすごくややこしくなった。教員養成大学だったから、免許状取得のために必要な授業が多く、とりそこねる学生がいないようにするために、卒業できるだけの単位をそろえたら、それがそのまま必然的に教員免許も取得できるカリキュラムになっていたのだが、学生に多様な選択をさせるために教員免許を取らなくてもいい新しいコースを作るということになると、そうでないカリキュラムも必要になる。それを運営する新しい組織も必要になる。
当然そのために独自の体制が必要なのだが、金も人もなくてそれが無理だから教員はかなりの人員が両方のコースをかけもちし、相互乗り入れをしなくてはならない。これは学生にも不満を生むことが多いしそれを解消しようと努力したら、その分教職員の負担が増える。
幸か不幸か私は大学以外の職場につとめた経験がないから知らないが、たとえば電気製品の会社が子会社を立ち上げたり、新しい部門を作ろうとしたとき、そこの担当者の半数か下手したら全員が、それまでの会社や部門での仕事をかけもちし、テレビの製造とパソコンの販売と会社の宣伝をかねた劇場の運営とテレビ番組の制作を、一日のうちにごっちゃにやっているということがあり得るのだろうか。この二十年来私たちが大学でやっていた仕事というのは、まったくそういうことだった。おそらくどの大学でもそれぞれに、要求される新しい仕事への対応はこんなかたちでなされているはずである。

こんな対応が、具体的にどういう事態を生むか学生との関係もふくめて説明すると本が書けるほど長くなる。だから簡単なことだけ言うと、一人の教員がいくつもの組織に属し、一つの授業がいくつものカリキュラムの中でちがった名前で呼ばれたりする。その結果、ほぼ同じメンバーの会議でも「ええと、これはどの組織の会議だったっけ」とわからなくなることがよくあって、「え、これは○○学科の△△課程の講座会議じゃなくて、××コースの○△教室の会議だったんですね」と会議の最後になって何人かが気づくという怪談めいた状態になる。
さらにカリキュラムは、国際空港の発着便の管制塔もこれほどではあるまいという複雑怪奇さになり、各コース、各志望の学生が自分に必要な授業をどうやってとって単位をそろえたらいいのかが下手すると入試問題以上にややこしくてわからない。したがって昔はまったく不要だった「単位の取り方、時間割の作り方」を入学式後のオリエンテーションで一日か半日とってガイダンスしなくてはならなくなり、日常的にも学生の履修についての相談(授業の内容についてではない。事務的にどうやれば必要単位の基準をクリアできるかが、ややこしすぎてわからないのだ)やその年のカリキュラムの作成に、各講座の担当教員は膨大な時間と頭脳と手間とエネルギーを消耗する。
金不足や人不足はそうやって、本来ならしなくてもいい新しいしょうもない仕事を次々に生み出して更なる多忙化を再生産する。

4 内なる要因

私はかつて教授会で、大学の自己評価について議論されていたとき、「どうして社会に公開し、政府に報告する自己評価にそんなに正直に弱点や欠陥を暴露するんですか。そういう検証は内部できちんと行って改善にとりくめばいいので、外部に発表する場合はうちの大学の教員や組織を、最大限に高評価できるような項目と基準を作ってアピールするのが当然でしょうに。大学が甘くて企業に学べとか言うんなら、そここそ学ぶべきで、どこの企業が自社の弱点を見せるような自殺行為をするもんですか」と発言したことがある。だから、この文章でも大学の多忙化を生んだ原因が、私たちの方にもあるなどという反省は、基本的には言う気はない。
大学人が大学関係の本を書いているのを読んで、よくあきれるのは同僚や大学の体制をせっせと批判して改善や改革を訴えていることだ。そんなのは大学内部でがんばってくれればいい。自分が内部でできなかったような改革を外に向かって訴えて何の説得力があるだろう。

ではあるが、大学以外にも共通するかもしれない、あるいはその反対に大学なればこその、多忙化を生む性質も理解してほしいので、最低限にあっさり(と言っても私のことだからどうなるかわかったものではないが)と、そのへんについて書いておこう。
前項で書いた、人不足、金不足の解消のためにする工夫が更に新たな仕事を生み出し多忙化を促進するという事情については、私はもしかしたら大学や大学人の性質も少しは影響しているかとひそかに疑っている。
今でこそそんなことはあまりないが、昔は「わかりにくく、ややこしく書く」論文や本がえらそうに見えるという風潮はたしかにあった。わかりやすい話はむしろ軽く見られて軽蔑された。その原因か結果かは知らないが、大学教員だか人間だかには、そういうややこしい体制や手続きを作って喜ぶ傾向がたしかにある。ついでに言うと、そこには自分以外の者には立ち入れなくすることで、優越感や満足感を得ることもある。立ち入れない方もまた、その謎を解いたり手続きをクリアしたりして、その迷宮に招きいれられることに達成感やエリート意識を持つこともある。
大学の委員会や会議で、人事や予算やカリキュラムについて「ここをこうしたら」と提案するたび、「いや、若い方はご存じないでしょうが、それは今から三十年前の組織改編のときの確認事項というのがあって、ここの講座はあそこの講座に借りがあってああたらこうたら」と生き字引のような老境の先生の説明を、どの大学でも何度聞いたことか。私自身は自分が年をとっても、そんなことを覚えているヒマなんかないし、昨日着任した新しい先生でも即戦力として大学の運営に携わってもらうためには、そんな故事来歴や古今伝授は一つもないのが一番いいと思っていたから、そんなことを記憶しておかなくてはならないような仕事はいっさいしないで来た。実際、この多忙化の中では、そんな過去の約束事への配慮はしようがないほど、あっと言うまに現状が変化して行く。

しかし、そういう、「ことをややこしくして、それをクリアすることに快感を感じる」感覚は組織でも個人でも消えてしまったわけではないだろう。第一好きか嫌いか以前に、これだけややこしくて正気の沙汰とも思えないカリキュラムや組織を曲がりなりにも無事に運営してきたのは、大学の教職員や公務員の優秀さでなくて何だろう。私ははっきり言ってこういう点で、能力の高い集団というのは本当に始末が悪いと心の底から思っている。少なくとも私はこういう点はバカでズボラだから、私のような人間ばかりだったら、こんな異常な体制はとっくに崩壊していたはずだ。
優秀で勤勉な人々だからこそ、倒れそうになり死にそうになり実際に病人や死人が続出しても(ここ十年の私の周囲では、本当に若くして死ぬ人や身体や心の病いにかかる人たちが多い)、ぜいぜい息を切らしながらもこんな状況を維持できた。東北の大震災で家を奪われ家族を奪われ故郷を奪われ肉体的にも精神的にも消耗しきって死にかけている人々に援助を与えるのに、膨大な手続きのマニュアル本を送りつけるのは、きっとこういう優秀な人々なのにちがいない。

もうひとつ、大学改革の初期によく言われたことだが、「社会や政府の要請で大学が変化しなくてはならないのだったら、せめてこの機会に大学の在り方を見直して、よりよい大学を作ろう」と言うような言い方があった。
私はこの「せめてこの機会に」と言う言い方が大嫌いで、そもそも現場が望んでもいない改革を(この点については次項で書く)押しつけられて、例の「何でそんなこと無視して放っておかないんだい」とあきれる大先生のような正しい反応が諸般の事情でできないのなら、次にするのは、徹底的に手抜きな対応で逃げることしかないと思ってきた。
大学改革に限らない日常の社会でも家庭でもそうだが、誰かや何かに力づくで押しつけられたことに対しては、たとえそれがいいことであっても(と、あえて言う)、とりあえず拒絶するのが当然だ。それができなければ自分の方の実態を整理して対応策を作れるまでは最大限、回答保留を維持して時間稼ぎをするのが正しい対応だ。
「こちらにも欠点があるのだから、この機会に反省をして成長発展を」などと考えるのは屈服敗北のごまかしで、ことと次第によっては屈服も敗北もしかたがないが、その事実を認めたくなくて、こんな言い方でお茶をにごそうとするのは古今東西いい結果を生んだためしがない。それは、レイプをされながら、この機会に快感を得てマゾヒズムにめざめようと努力するとか、脅しに来て玄関に居座っている暴力団と家のローン計画を検討するとか、スピード違反をしていたという後ろめたさから殺人事件の容疑を否認できないとかいうのと同じぐらいにバカげている。
欠点や弱点のない人間も組織もない。それを指摘してくれる他人や機会は重要だし貴重だ。しかし、それをどのように取り入れて利用するかは、つくづく慎重であるべきだ。どれだけその忠告や提言を受け入れることが可能かも充分に検討しなくてはならない。全面対決し、拒否する努力もしなかったやわな精神にそれがどこまで可能なのか。これを機会に本当に自己を改造し再生しようと思うなら、それ相当の覚悟がいる。少なくとも、徹底的な対決をして戦う勇気も労力も惜しんで、現状逃避し問題を回避する精神で、「せめてこの機会に」などと言っているような人間や組織なんかに、決してできることではあるまい。

第一章や二章でも書いたが、私は大学教員の、方向性はまちがうことも多いにせよ、学生への愛情や仕事への情熱にいつも半ばあきれつつ感服している。ひょっとして、こういう人間や仕事への愛情は大学教員だけではなく日本人だか人類だかのすべてに共通する傾向かもしれなくて、だから私は矛盾した言い方だが暗澹とした思いでやけくそ半分に、人類の未来にはかなり希望を持たざるを得ない。
私がそうであったように、苛酷な状況の最近では次第に薄れかけているとはいえ、まだまだ大学教員の学生への情熱と愛は深い。彼らのためにつくしたいという思いが、授業や各種サービスへの手抜きを許さず、自殺行為に等しい膨大かつ複雑なカリキュラムを生む。
この項の最初に書いた、大学人の中途半端な良心といい、学生の教育や研究への愛情といい、私はずっとこんな現状の中では、防衛本能の欠如、生存本能の欠落、潜在的自殺願望に等しいと感じ続けてきた。くり返す、戦う努力を放棄するなら、せめて手抜きとサービス低下と仕事の削減で抵抗し、組織と自分を守るしかない。
だが、誰もそれを決してしようとしない。仕事と学生と研究への情熱を失ったら大学も個人も滅びると本能的に誰もが感じているからだろうが、物事には限界というものがある。

これまで何度も書いたように私自身は学生(受験生もふくめて)への愛情については、この十年で手を抜いてきた。研究についても同様だ。質は落とさなくても(落ちたかな)量は激減した。死にたくなければそうするしかなかった。大学全体でも、もちろん入試制度も含めて、そういう手抜きを積極的に誰もが模索するべきである。
大学の予算が削られ、効率化の大合唱のもと、社会も政府も無駄をなくすことがどれだけの無駄を生むかを見ようとしないのなら、大学もまた、正しい手抜きで早急に対応しないと、このままでは構成員が良心的で有能な人から次々倒れて行く。
とはいえ、そうやって倒れても滅びても、中途半端でも良心を守り抜こうとする人たちの感覚もわからないわけではなくて、そういう良心をなくして企業の論理で対応しなくてはならない状況こそが、大学を徐々に変質させ死に至らしめるという可能性もまた見逃せない。せめて無意識にずるずるとではなく、積極的な確認と展望を持って、何を選び何を放棄するかを、個人も組織も選択すべきだろう。

ついでにちょっとつけ加えておくと、自分が仕事の手を抜いた理由の一つを思い出して言うのだが、それは家族親族の死亡や相続、介護問題がのしかかって来たからで、退職したら退職したで、年金だけの経済生活がこの状況をますますせっぱつまらせる。
私はまだ幸運だった方かもしれないが、まあこういう家庭の事情は人それぞれに多様でランクづけなどできないだろう。だが、かつての同僚の中には現職のときからすでに老親や家族の介護に追われている者も多く、大学の多忙化はこのような人たちを更に追いつめている。
このような事態に家族がいるのと独身とどちらが苛酷な現状かは、これまたいろいろありすぎて、いちがいには言えない。今の大学に女性の役職者があきれるほど少ないのは、育児や介護の問題が特にそういう役職につくような年代の人の家庭では、依然女性に多く負わされていることもあるだろうが、しかし最近では独身と既婚を問わず男性にこのような問題がのしかかって来る場合も少なくない。
そして私のいた大学でも給与や退職金がどんどんカットされて行っていて、時間のなさやストレスをささやかに「金で解決する」余裕も失われつつある。それは雨がどしゃぶりや猛暑の日に重い資料を持って移動するときタクシーを使うといった、本当に小さな贅沢だが、そういうことさえ許されなくなりつつある。
大学教員や公務員の年金や退職金はものすごく多いという印象はまだまだ世間に根強いようだが、三十年近く大学に勤めた私で、年金は月に手取り二十万円をかなり切るし、講演料はどこぞのタレントとはちがって一回一万円程度のことが多く、本を出版しても資料や調査の費用を引いたらほとんど残らない。数年前の世代はもっと潤沢だったようだし、職種や職場によっては(大学ではない)時々とんでもなく豊かな年金をもらっている人の話も聞くが、今はもう大半がそんな時代ではないし、今後はますますそうなるだろう。大学の研究や教育を支える基盤はそういう点でも決して安定していない。
私は綿密な予定など立てなかったが、大まかに何とかなるだろう程度の老後の予測はあったから(今思うとあまり根拠もなかったのだが)、在職中は曲がりなりにも、研究や教育に打ち込めた。だがおそらく今の大学の状況は、それさえ許していないような気がする。まあ、板子一枚下は地獄の状況のまま、いついなくなるかもしれない行きずりの人間としての学生指導も研究もできないわけではないだろうからそれはそれでかまわないが、これだけ研究や教育にかける金をけちった結果は国力にきっと如実に反映するだろうと私はぼんやり考えている。

5 上意下達もほどほどに

先ほど、人員が少ないのをカバーしようとして、一つの授業をいくつもの名目で使いまわすという話をした。つまり私が江戸文学について話す授業が国語科の学生が受講すると「国文学概論」になり美術科の学生が受講すれば「江戸文化概論」になり国際科の学生が受講すれば「日本文化講義」になるといったたぐいだ(これは実際の例ではないが、だいたいこんなものだ)。同じ時間の同じ講師の同じ授業がそれだけの名称に化ける。
必ずしもこれが講義の質を下げるということはない。だがやはり何かとややこしいし、教える側からすれば多様な学生に一度に対応するからそれなりのストレスは生む。だから充分な人員がいれば、もちろんこんなことは避けたい。人手不足で要求される授業が多いから、こうするしかなくなるのだ。
ところが文部科学省のチェックでは、こういうのは教員の手抜きとみなされるらしく、それぞれ別の授業にするよう指導される。その結果ほぼ同じ内容の授業をそれぞれ数人の学生の教室で三回行うことになって教員の負担はそれだけ増える。まあそれは少人数の対象に配慮しやすい授業になるという点ではいいこともあるから(だからってうかうかしてると、今度は受講者が少ない授業は閉鎖して、不要な人員は削減するよう指導が来かねないという心配もあるが)、時間的拘束や疲労度は別としてあきらめてもいいが(ちなみにもちろん、そうやって授業時間数が三倍になろうが十倍になろうが、給与はまったく増えないし、特別手当が出るわけでもない)、私がいつも激怒し、他のおとなしい先生たちはため息ついたり嘆いたりするのは、往々にして、古典文学の演習などで、一年生と二年生、二年生と三年生など複数の学年を対象にした授業が、このような使いまわしの手抜きと解釈されて、「それぞれの学年ごとに別の授業をするように」と言われることである。それがしかも、「各学年の発達段階や成長段階に合わせた教育をしろ」のような感じで言われていると、本当にこんな指示をしてくるバカの胸倉つかんで下腹けりあげてやりたいぐらい腹が立つ。

少なくとも古典文学の演習で一番力がつくのは、上級生と下級生がいっしょに授業を受けることなのだ。教員の注意や指摘だけではなく、上級生の質問や指摘が一番刺激にもなるし勉強にもなる。上級生の方もまた、そうやって下級生の発表をチェックし、指導することで緊張するし成長もできる。いくら言ってもきりがないほど、この複数学年を対象とした演習の効果は絶大だ。他の学問や分野ではまたちがうかもしれないが、少なくとも私の携わる分野では昔もそうだし今もそうだ。それを各学年に独自に対応した演習科目を開設することが教育効果を高めると何の疑いもなく思いこんで、したり顔で指導してくる人間の神経というのが、私はもう、何か自分でもヤバいと思うほど、すさまじいくらい腹が立つ。

・・・と私がぶちきれまくっているのを読んで、きょとんとしている人の数ってもしかしたら相当多いのではないですか。少なくとも大学外の人だったら。
「何でそう言わないの」「どうしてそういう事情を説明しないの」と思うでしょう、誰でも。
ここ、赤字のゴシックの三倍活字で書きたいですが、そういうシステムはですね、「無い!」のですよ。

これだけピントはずれで現場のことなんか何もわかってない指示を片っぱしから文部科学省は下ろしてきて、その前段階でもその後でも、「これでどうですか? 不都合はないですか? おたくの大学の状況ではどうですか?」という問いかけも意見聴取もまったくない。皆無にない。文法的におかしくてもかまうものかと強調したくなるぐらいない。そういうシステムもルートもないのです。昔から。

いやもう、これってすごいと思う。私は逆に文部科学省の担当者にも同情しますけどね。現場の声も反応もまったく聞かなくて、どういう基準でどういう気分でそれなりに重大なシステムの改革や組織の改変に関する案を次々出していけるのか、本当にわかりません。星占いでもして決めているんでしょうか。秘密の諜報組織でもあって、ひそかに調査してるんでしょうか。その割には的外れなことが多いけど。

こうやって書いていて不安になるんですが、本当にないんですよね。私のまちがいってことはないですよね。あるという話も実態も知らないから、実際そうだと思うんですが。いくら何でもそんなバカな、どこかに何かのかたちできっとあるんだろうと誰もが思っているからこそ、そのまんまになってるのかもしれませんが。

私がある程度、そのことに確信が持てるのは、もう何十年も前の新任教員だったころ、ある地方の県立大学でいやというほどそれを体験したからです。
そこは私の二度目の職場で、もっとも最初に就職した私立大学には二年しかいなかったから、まだまだ私は三十代はじめの新任教員だった。そこである委員会の一員として、学生の履修基準の改定のようなことに携わったのだが、これがなかなか難しく、規則をひとつ改定するのに、結局は関連するさまざまな組織やシステムをいくつも見直して変えていかねばならなかった。そうすることで学生や教員の指導体制その他にどう影響が出るのか、見当もつかないほど広範囲に複雑な作業で、危険でやっていられないと私は思い始めた。

何より、そんな改定をする必要性や利点が、どこをどうさがしても見つからなかった。何でそんなことを誰が思いついたのか、さっぱりわからず、まあ、だからこそ、改編の仕事がややこしくて難しいのだった。
どこも悪くないし、誰も不都合を感じていないシステムや体制や規則を、何の理由もなくわざわざ変えようというのだから、目的もわからず何を加えて何を省くかの基準も見つかるわけがない。まったく問題のない健康体の人間の臓器を摘出しようとしているようなもので、どの血管を結んで、どの神経を切断するか、病巣も症状もないのだから、わかるわけがないのである。
もうだいたい話の行きつく先は見えてきたかもしれないが、業を煮やした私が若い身空で「何でまた、こういうことをやらなきゃいけなくなったんですか」と委員長の先生や事務の担当者に訪ねて、やっと理解したのは、「文部省から毎年、その部分の規則を変えろと指導が来るから」ということだった。

もう何十年も前のことだから、詳しいことは私も忘れてしまったが、以下の話の大まかなことは多分まちがってないと思う。私のいた、その県立大学は、四年制大学と夜間の女子短期大学が併設で一体運営がなされていた。そして、もともとの母体は夜間の短期大学の方で、そこは実に古い伝統を持つ短大で、国文学の第一人者と言われる誰もが知っているような大先生がそれまで何人も在職されていたし、その時もそういう立派な先生たちがおられた。だから授業の内容も四年制大学とまったく変りがなく、国立大や旧帝大なみの教育内容で運営されていた。

それがいけない、そういう夜間の女子短大があってはならない、ということを文部省が考えたわけでは多分ない。おそらく、そういう短大だから、カリキュラムや履修基準やその他の規則のいろいろが、全国の他の短大とすこしちがっていたのだろう。で、それを他の短大と同じようにそろえて「整備」しろということだったのではないかと思う。

そのころは、まだまだ大学も今ほどに忙しくはなかったし、人も金も逼迫してはいなかった。しかし、四年生大学と夜間の女子短期大学を一体化して運営し、教員の人材をフル活用し、事務的な手間も省くという点で、それは長年培われた合理的で無駄のない体制で、まったく矛盾も不満も不都合もなかった。短大の規則のいくつかを必要もないのに変えて、全国の他の多くの短大と一律にすれば、現状に合わないという大問題を仮にのぞいて、単純に考えても、当然その分仕事は複雑になり二重手間になり、だいたいどういう不便や矛盾がどれだけ起こるかさえも予測できない。普通こういう改編は、何か不便や不満が生じて、その解決のためになされるわけで、それだと何をしたらいいかはおのずとわかって来るものだが、当事者は何の不都合もないものを変更するのだから、実行したときの被害の程度さえも予測ができないのだ。

文部省の方ではひょっとしたら何か便利なことがあったのかもしれないし、もっと腹が立つのは別に便利なことはなくても、全国すべての短大の規則が、見た目きれいにそろった方が文部省の担当職員としては何だか気持ちがよかったのかもしれない。

「多分」とか「思う」とか「しれない」とか私が推測ばかり書くのは、推測しかしようがないからだ。つまり、文部省のそういう現実離れした現場無視の「指導」が、いったい何の理由があってどういう意図でなされているのか、聞いてみてはどうかと言ったら、「そんなルートや手続きは存在しない」ということだった。「うちの大学は、現状で何の不便もなくて、こういう改編をしたら、こういう不便があります。うちの大学は四年制大学との関係やこれまでの伝統で、他の短大と比べて少し特殊な事情があり、それがうまく機能しているのです」という事情を説明してはどうかと言ったら、「そんなルートや手続きもない」ということだった。

ことここに及んで私も、「何で文科省の言ってくることなんか相手にするんだい」と不思議がる大先生と同様、「じゃあ、もう相手にしないで放っておけば」と言った。放っておいたら何か処分か罰則があるのかというと、それは別にないと言う。あればまだしも、その時に事情を説明する余地があるだろうと私はふんだのだが、そういうものもなくて、「ただ毎年同じ指導が来るだけです」と言う。「ここ何年かずっとそうです」とのことだった。

何十年もたった今、こうして書いていてもあらためて思うが、よくもまあそういうことに耐えられるものだ。指導をして理由も言わず、従わなければ処罰もせず、なぜ従わないのか聞きもせず、翌年同じ指導をまたよこし、それを延々続けるという神経は私には死んでも理解できない。

とにかくそんな、夏になったらガラス窓にはりつくヤモリのような毎年の風物詩にひとしい指導なんか相手にする価値なんかないから、「何か向こうから言うか聞くかして来るまで放っておくしかないでしょう」と私は言った。事務担当者は何も言わなかったが困った顔をしていたのではないかと思う。これまた優秀な事務員なら、きっと毎年そうして同じ指導が来ることは落ちつかなくて気分が悪いのだろう。「毎年そういうことに耐えられない」というのは、私は指導する方のことで考えるが、逆に受けとめる方がそうなるわけで、それを期待して「指導」が行なわれるのだろう。もう、不毛としか言いようがない。
ささいなことなら、さっさと処理して気分よくなってもいいが、この場合そこまで危険をおかし犠牲をはらって、気分よくなるほどの必要性が私には見出せなかった。

それでも、その問題がいつまでもむしかえされるので、私はうんざりして、こんな意味のないことで時間を費やするのはもうやめましょうと言った。そうしたら何が起こったかというと、委員長をしていた、まじめでおとなしいご年輩の先生(国語国文学関係の方ではない・・・筆がすべって書いてしまうと、国語国文学関係で、よかれあしかれ、そんな風におとなしい先生を私はこれまで見たことがない)が私の研究室にわざわざ来られて、「自分の能力がないために会議の円滑な運営ができなくて時間をとらせてしまって本当に申し訳ない」と平謝りに謝られた。画策でも懐柔でもなく本当に本心からそう思って恐縮しておられるのがよくわかる分、私は弱いものいじめをした気分になり、がっくり疲れて脱力し、結局死ぬほどしょうもない作業をして、何のためにもならない改編作業を完成させた。

私もしつこい人間だから、そのときの恨みを忘れずここにこうして書いているわけだが、多分この状況は今も大して変ってはいない。
東北の大震災のあとしばらくして、新聞の小さなコラムで被災地の首長か誰かが、「下ろされて来た方針に対して、こちらから事情を説明し、修正を求める機会や方法がまったくない」と慨嘆しているのを読んで、またかよまだかよやっぱりかよと目の前が暗くなった。
現場の状況を知らないで方針は出せないし、出した方針について反応を確かめたいというのは、人間にとって普通の感覚ではないのだろうか。いつからそれは欠落しつづけているのだろう。

6 さかさまのふるい

たしかに、特にセンター入試関係などで、実施方法や試験科目についてのアンケートというものはときどき中央の機関から来る。かなり来る。いやになるほど来ると紙一重ぐらいの頻度で来る。だが、これはただでさえ忙しい各学科の講座会議や主任にとってはけっこう負担だ。私個人の感覚から言うと、山ほど言いたいことや感じていることはあるのに、それをあくまで向こうが聞きたい、一定の枠にはめて解答しなければならない、その感覚に、そもそも非常にイライラする。
誰でも知っていることだが、アンケートというのは質問項目の立て方によって、かなり恣意的に望んだような傾向を引き出せる。そんな明確なあるいは漠然とした意図がなかったとしても、そもそも状況や解答に関して、ある程度の予想や実態把握がなければ、項目は作れない。アンケートを出すということそのものが、その件やその対象について一定の把握はしているということになるとしか私には解釈できないのだが、その一方で、そのアンケートを見ただけで、出したやつらは絶対にこの現状を把握などしているわけはないという確信がむくむくとわきおこるから、ものすごく解答していて腹が立つ。
オフィスアワーと似た精神を感じる。様式化し無駄を省き、相手を自分の枠にはめて理解しようと制限し、聞きたくないことは初めから聞こうとしない。そして意見は聞いたと言いわけし、聞いたのに言わなかったとさかねじを食わせる材料に使う。そういう意識がすけすけにすけて見える。

学生との会話もそうだが、物事の現実は混乱し複雑で、すべての事象はすっきりとはしていない。だから、とにかく見るしかないし、耳をかたむけて聞くしかない。そうやってながめ、聞きいっている内に何かが見えて来るし問題点が浮かび上がる。それは手間も時間もかかるし、大変無駄な作業のようだが、実は一番無駄がない。すべてをすくいあげて、ふるいにかけて行くことで、大切なものがおのずと見えてくる。大学に限らず、あらゆる現場で仕事をする人はそうだし、上に立ち全体を見る人は、まずは最大限の機会をとらえて、その声を聞かなくてはならない。
ところが、アンケートやオフィスアワーに典型的だが、最初から予測したことしか聞こうとせず、自分のしたいことをするための口実となるものしかすくい上げようとしない。せっかく豊かな現実があるのに、それをまず全部救いあげようとせず、なまはんかなさかしらで、自分の乏しい知識やセンスだけを頼りにでっちあげた、出来の悪いふるいを、いわば上からかぶせて押さえつけ、それで網の目から浮かび上がって来ないものは、なかったことにして無視するという、一番あり得ない、あってはならない、ふるいの使い方をしている。当然何もひっかかって来ないわけだが、「ふるいはちゃんと使った」と自己満足して安心し、そう報告して責任をまっとうしたつもりになっている。
研究者ならきっと連想するだろうが、これって、論文の書き方として一番さけるべきことですよね? そういう点でも私はイライラするのかもしれない。
(ちなみに内田樹「下流志向」の文庫本の中で、最近の講演会の聴衆は、質問がないか聞くと、講師がまるで言ってもいなかったことを自分勝手に聞きとって質問してくるという嘆きが書いてあった。そういうこともきっとあるだろうし、学生に授業をしていても、そういうことは時々ある。しかし、それ以上に私はこのような「すべてを自分にとって、都合のいい枠組みでしか聞き取らず、初めから自分が聞こうと思うこと以外は聞かない」という頭脳構造は、むしろ上にたつ人、支配者、指導者の方に最近ものすごく増えていると思えてしかたがない。)

でも私は、自分のこのイライラが、学者固有の本能や精神だなどとは思わない。むしろ、(このへんから話がややこしくなるが、なるだけわかりやすく話そう)大学に欠落しているとよく言われ、身につけろと要求される社会的常識、企業の論理とこうした学問研究の手法はまったく共通すると感じる。
そして私が大学改革全般にはじめからずっとイライラむしゃくしゃしているのは、大学が社会性を持てとか企業のやり方を学べとか言われているわりには、要求されていることの数々が、どう考えてもちっとも社会や企業に通用することだと思えないことだ。

私はこれでも(っていばってもしょうがないが)昔はマルクス主義をかじって社会主義政権を支持していたし、今も完全にそれを放棄したわけでは多分ない。でも、その私も少なくとも今の日本でこれがもし資本主義の論理なら(そうかどうかは厳密にはよくわからないが)、こればっかりはやっぱり評価するのは、今の日本の会社や店舗や企業の顧客サービスが本当に行きとどいていて誠実で徹底的ですごいと思うことだ。客の言うことならどんな無理でも聞いて、望みの商品を作って提供してくれる、この能力とそれを支える精神はものすごいの一語につきる。その快適さと幸福を私たちは忘れ過ぎてはいないかと時々不安になるぐらいだ。
だから私は「原発がなくなって大丈夫なんですかね」という不安を、一瞬のかけらも感じたことはない。すでにそのきざしは見えているが、原発なしで今と同じ便利で快適な生活を送りたいと消費者が望めば、企業は絶対何とでもしてそれに応える。ウォシュレットからルンバから、自動ドアから薄型テレビから、これだけ消費者の望むものを作り上げてきた社会体制に不可能はないと、風呂を薪で焚き、トイレのくみとりを自分でやって畑にまいていた世代(まだほんの五十年前ですよ)としては確信しているのである。
もちろん、そこには切り捨てられたり落ちこぼれたりする人たちの存在もあり、便利だからと原子力に頼ってしまったのはちょっとやそっとのまちがいではすまないが、しかし全体として消費者だか庶民だか中産階級だかが望むなら、反論もなく文句も言わず、どんな無理難題でも聞くという企業の姿勢はもっと高く評価し感謝していい。というか、こんなにわがままを聞いてもらっていいのか、よく皆、平気でいるなと私はびびっているぐらいだ。

だがそれは、徹底して消費者のニーズをさぐり、「無理だ」「過大な要求だ」を絶対の禁句にして、その要望や不満に応じつづけて来た人たちの底なしのと言いたいぐらいの努力がある。それを最大の資料にして新商品やシステムの開発にとりくんできたから、それなりの結果も生まれたにちがいない。
大学改革において、私たちがやっていること、やれと言われていることは、どう考えても、それとまったくちがっている。
そこには現場の調査がない。大学教員や大学運営の実態や意識についての把握がない。だいたい、現場の構成員が討論し意見を述べてまとめたことを、報告し反映するシステムがちゃんと機能していないどころか皆無に近い組織や企業に、よい商品を作れるわけがないだろう。そもそも金も人も与えないどころかむしろ減らして仕事を拡大するという無茶な方針を、まともな企業が採用するとは思えない。
こんな打ち出の小づちをふれば何とかなるだろうというような、夢物語の改革は、大学教員や大学教育がよっぽどぜいたくをしてずぶずぶだらしなく肥え太っているから、少々しぼりあげても大丈夫という幻想でもあったのか。そしてまた、それとは少しちがうけれど、それなりに長年蓄積してきた学問研究の体制が、そういう無茶な要求に一応それなりに応えてしまう余力と底力を持っていたから、「それ見たことか、やればできるんじゃないか」のような幻想を文科省か政府か社会かに与えてしまったのか。だが、どっちにしても、いろんな意味で、そろそろそれは限界に近づいている。

(2012.8.28.)

Twitter Facebook
カツジ猫