『大才子・小津久足』感想(26)
【しめくくりです】
少し前にツイッターで紹介しましたが、3月25日に九大の研究会の特別企画で、この本の書評会がオンラインにて開催されました。私は体調やら都合やらで非常に残念ながら参加できなかったのですが、2時間半が短いほどの充実した質疑があったそうで、とてもうらやましく、また嬉しいです。
以前の忘却散人こと飯倉氏の主催の会と同じに、一冊の新著でこのような会が二度も開かれるのは、私の知る限りでは珍しい気がします。幸福な本だし、それに値する本だとも思います。
専門分野に限らず、一人でも多くの方に読んでいただきたくて、とんでもない長くて脱線しまくりの「感想」を書き続けてきたのですが、最後になって息切れし(確定申告が悪い。あれで時間とパワーをとられた。笑)竜頭蛇尾どころか、しっぽもないままになっていました。まあそもそも竜頭でもないわけですが。
ともかく、居眠りがそのまま冬眠になっていたような私も、この本で快い刺激を受け、今後は少し紀行研究に精を出し直すことにしようと決意できたのは何よりもありがたいです。その感謝の念もこめて、いちおう「感想」のしめくくりをしておきます。すでにまっとうな批評や評価は、ネットその他でもしっかり出始めているようなので、いつものように、ほとんど個人的な印象批評に堕している点は、どうぞ大目に見て下さい。
【しゃぶりつくせる本】
この本にまつわる二度の会がいずれも充実したものになったのは、もちろん何より主催者の方々の準備や努力によるものでしょう。このような読書会や書評会はとても有意義な楽しい試みだし、今後もさまざまなかたちで行われることを期待し希望しています。
今回、それがうまく行った理由のひとつは、もしかしたら、この本の題材が「紀行」という、それこそ鵺のように正体がつかみにくく、多くの分野と境界を接している普遍性を持っていたこともあったのかもしれません。さまざまな人が参加でき話し合える場所として「紀行研究」は案外便利なのかもしれないと見直してもいます。
この本の内容が多岐にわたり充実していたからという理由は、今さら言うまでもありません。著者の菱岡氏の惜しみない調査研究により、ほとんど一ページに論文三つほどの内容がつまっているようなこの本は、多くの人がどこかをかじったりかみしめたりする要素にことかきません。そういう点ではまさに、いくらでもしゃぶりつくして、骨でスープもとれるような内容の濃さです。しかもその豊富な内容を、なだらかなわかりやすい文章で語ってくれているのですから、広範な知識も深遠な考察も、週刊誌なみの読みやすさで本当に快く喉を通って行きます。これは専門分野からもそれ以外の方々からも、実にありがたいことと言わなければなりません。大学への予算が削られ業務が増加している中、研究者がこのような本を書く時間や機会も、そもそも志を維持することは簡単ではないけれど、ひとつの目標というか目安として、この本が今後も読まれることを願っています。
【禁猟区がない快感】
この「感想」、前の回からあまり間が空いたので、念のためにもう一度読み直しました。楽しい作業でしたが、またずるずるとはまりそうになって、あわてて引き返しました(笑)。
安心して読めるのは、菱岡氏の研究のあり方をずっと見てきて知っている私だけではなく、初めて読んだ方や専門外の方でも何となく感じるのではないかと思うのですが、この本には、引用ではなく原資料を用いて徹底的に探査し、行き着けるところまで調べてくれている部分が圧倒的に多いため、どこかを読んで興味や疑問がわいた時、「そこはどうなっているのだろう」「この点はどうなのだろう」と思ったことの回答が、ほとんどいつもちゃんと示されているのです。
私も含めて、研究や発表は時間的な限界もあるから、未調査や未検討の部分はどうしても残ります。前の「感想」でも書きましたが、今日び、出版社や編集者や読者は「ここはまだ調べていません」「この点はわかりません」という表現を嫌います。だから、少なくとも一般的な方々を対象とした著書の中では、「この先行き止まり」という標識や立て札さえも立てられません。もやもやと霧や雑草や沼で読者の足や目を封じてそこから先には行かせないようにする他はなく、それをわかって読んでいる場合、このもどかしさやいらだたしさは、積もり積もるとなかなかです。
菱岡氏は、この本でそういう霧や雑草や沼を徹底的に駆逐している。どこまで歩き回っても「この先行き止まり」の立て札や、その代わりの目くらましがない。当時の海産業の実態、小津家の系図や人間関係、蔵書の各冊の行方、などなど、かゆいところに手が届く以上に細かく、容赦なく、即座の詳しい解答が目の前に提示されている。たとえに戻すと、言ってみれば禁猟区がない広大な地域を思う存分、自由自在に歩き回れる。探しものが、常に目の前の木に果実となってぶらさがっている。その開放感と快感は、少なくとも私にはものすごいものでした。菱岡氏の調査や作業が、ひょっとしたら人生も日常も、手抜きなく正確でしつこいぐらい完璧であることを、大学生のころから知っている信頼感が根底にあるから、なおさらだったかもしれません。
これもまた、誰にでもまねのできることではないでしょう。才能とか、そういう点だけではなく、条件や環境がそれをなかなか許さないのが、今の日本の学術研究の現状です。それでも、この本は、それができている場合に広がる風景のみごとさを、夢のようにつかのま、私たちに見せてくれます。くり返しますが、誰にもこれができるわけではない。できないからといって、その研究も研究者も劣っているということでは断じてない。ただ、今回の菱岡氏のこの本の、ある意味無謀で、誰がこんな無茶を思いつくかと言いたいぐらいの非常識な挑戦は、そしてそれの成功は、南極に行こうとか金を精錬しようとか土星の生命体を探そうとか、そういう途方もない計画や構想が、人類の学問や発展をひきずってきたように、「あるべき姿」「めざす姿」のありようを、具体的に多くの人の目に触れさせた。そのことが、この時代に、この世界に、私はかけがえのない財産となったと言いたいのです。
【あくまでも慎重に】
私は大風呂敷を広げているつもりはありません。しかしまあ、菱岡氏は断じてしないような、どぎつい酔っぱらい風の表現をしていることは認めましょう。まちがってはいませんけれどね。
以前に坪内逍遥の「小説神髄」をきちんと全部読んだとき、二十代前半の著作とは言え、たいがいだらだら語っている部分も多く、強引を飛び越えたような飛躍しまくる論理に目がくらみ、その後の何とかいう文学論争で、まるで理論的でない饒舌で逃げているのともイメージが一致して、しばらくは学生たちに「あれだけ有名な著作だからって、敬遠してるのはまちがいだ。ぜひ全文を読んでごらん。はー、この程度かと思ったりして、絶対に面白いから」と、変なけしかけ方をしていたものです。
最近、趣味で書いている小説に関連して、宣長の「古事記伝」をななめ読みしています。何だかデジャブな雰囲気があると思っていたら、「小説神髄」を読んだときの印象に似ているのに気がつきました。それはもう「古事記伝」はものすごい資料や考察が目白押しのてんこ盛りで、圧倒されるし楽しいのですが、あっちこっちにおいおいおいというような著者の考察やら推論やらがちりばめられていて、「むむむ」と笑いたくなるのも事実です。
いや、自分を逍遥だの宣長だのに並べようという、そんな身の程知らずの妄想は考えてもおりません。ただ、精力的で油の乗り切った研究者の偉大な著作というものは、どこかにこういう、勝手気ままな暴走めいた酔っぱらいのような筆のすべりがあるもので、そこがまたいいのでしょう。
そして、菱岡氏のこの本には、そういう酔っぱらいのようなやりすぎの部分がまったくありません。あくまでも慎重で、節度と品位を保って、読者を引かせません。資料と事実にすべてを語らせて、著者の推論はひかえられています。
【個人と時代】
ブログやツイートを読めばすぐわかることですが、菱岡氏は、古今東西の文献を読破し、パソコンにも外国語にも明るいようですから、逍遥や宣長程度の過剰な自論の展開をしようと思えば材料にはこと欠かないはずです。紙数の制限ももちろんあったのでしょうが、それが抑制されていることに、私のようなおっちょこちょいは、物足りなさも感じます。
ごく簡単に二点だけ述べるなら、あの久足の驚くべき、無理のない自然な自信と前向きな安定感の根底をなすのは何か、まあ、これだけの資料と事実から読者が推測すべきなのかもしれませんが、もうちょっと手がかりがほしい。私なんぞは、早とちりですから、このままではつい、結局は経済的な安定だろうか、その組織(店と家)を守り抜いた自分の経営方針というか倫理道徳への自負だろうか、それはつまり父の再婚に際しての幼時(ってほどではないけど)のトラウマに端を発するのか、また国学離れは紀行作家の多くがそうであるように事実や現実を目にすることで思想や論理と対峙できる力を生むということもあろうが、これまた最初は自作の長歌に(彼から見れば)ピント外れな批評をした大平への反感からはじまったのか、などなど、安易かつ単純な結論に飛びつきそうで恐い。
それがどのくらい正しいかは別として(多分正しいけど)、貝原益軒のあの慎重な姿勢と生き方は、兄や立花一族や彼自身に対する藩や藩主の処遇に対する不信感と警戒感が根底にあるだろうことが常識になっている。九州紀行を著した佐藤信淵については(んなこと言ってるのは私だけだけど)SF作家なみの小世界を空想するのがその性格の本質をなすと言っていい。
論文は小説じゃないからどこまでやる必要があるかは私にはよくわからないけど、このように、作者の本質や、それをかたちづくったものは、やはり知りたい。そこが、この本ではまだ浮かび上がらない。
もうひとつは、江戸時代をどう考えるか、その中で久足はどの程度、典型なのか特殊なのかという距離感というか位置づけがほしい。名前の使い分けにしても、前にも書いたが、この本の構成としての利便性と、久足自身の意識とについて、仕分けしながら、どの程度それが当時には一般的なのか、また現代とどうちがうのか、まだまだ知りたいことが多い。それは、この現代をどう考えるかにもつながるから、やさしいことではないけれど、わかる範囲で説明する工夫は何かあるはずだ。
菱岡氏が最後に今の近世文学者が基本としている、「その時代の目を持つ」という結論に結びつけたのは、悪くはないが、もう少しあちこちに接続器具をはめて説明の流れをよくしてほしかった。
いやまたそれで、しょうもないことをふと思い出したが、かつて中野三敏先生から、多分大分の田舎にすっぽん料理を食べに行って、暑いからと窓を開けたら羽虫の大攻撃にあい、それでもめげずに皆ですっぽんを食べつつやった合評会で(多分「花の紀行」だった)私の論文に、「板坂さんの論文って最後がいつも、あっさりしすぎてるんだよね」という批評をいただいたことがあった。私が「たしかに最初に大上段にふりかぶったわりには、ものたりないですね」と反省すると先生は「そうそう、ここまで書いてはじめたからには、最後もそれなりにさ」みたいなことをおっしゃったと記憶する。
質から量から内容から何から何まで、菱岡氏のこの本と、私の論文は桁違いの段違いで比べるのも申し訳ないが、「最後がちょっとさ」と中野先生から言われたのと同じことを私に言わせる菱岡氏に、変なところが似たのじゃあるまいなと、大変に失礼なことを考えている。
【今後の紀行研究】
菱岡氏や川平氏が書いておられるように、先の書評会では、さまざまな方面からの興味ある発言が多かったようだ。菱岡氏も言われるように、現地踏査を利用した研究(私はこの方面はまったく手をつけられなかった)も元気で丈夫な内にぜひ進めてほしいし、カルチャーセンターをはじめとした一般の方々のこの分野への研究者としての参入も各大学はぜひ考えてほしい。
私自身は、これまでに書いたまま保存していた、紀行に関するさまざまな資料を、どこまでやれるかわからないが、以後は積極的かつ精力的に、このホームページその他で発信して行こうと計画している。何しろ体調と相談しながらのことなので、どれだけやれるかはわからないが、これを決意させてくれただけでも、この本に対する感謝は、どれだけ述べても述べきれない。何よりもこのことをお知らせして、言いたい放題のこの「感想」をいったんは閉じることにしよう。著者をはじめとした各方面に失礼な発言の数々もあったかと思うが、どうぞお許しいただきたい。(2023.3.28.)