じわじわと、クリスマス
あいかわらず、グーグルフォトだか私のパソコンだかの具合が悪くて、せっかくの写真のピントが合わないしボケちゃうので、毎日更新するたびにストレスがたまっちゃう。イライライライラ(笑)。
「11月になったら、もうクリスマスよ」と、ミッション系の短大に行ってた私の老母がよく言ってた。それにつられて私もつい、ハロウィングッズを片づけたらクリスマスモードにしちゃうのだが、なかなか忙しくて、ちょこちょこじわじわ窓辺のレイアウトを変えて行ってる。
この写真の素朴なクリスマスツリーは私は大好きなのだが、毎回の恨み節で申し訳ないが、数年前に田舎の私の書庫を親切心から勝手に片づけた方は、このツリーをあっさり捨てるごみの中に、いともむぞうさに突っ込んでおられた。くやしくて悲しくて情けなくて、拾い出してきれいにして、もう私が生きている限りはクリスマスの主役にしてやると、固く固く誓ったのよね。間に合わなくて同じように捨てられてしまった、たくさんの大切な愛するものたちへの追悼や供養もこめて。
お隣りのトナカイは去年私がイベントグッズの爆買いにはまってた時、クリスマス用品の最初におっかなびっくり慣れないネットショッピングで買ったもの。
まだ赤いサンタとかいろいろあるのだけど、さしあたりは目立たないこの二つをそろっと飾ることから始めてみる。そして、窓の下にはやっぱり去年衝動買いしてたヒイラギの鉢を置く。これも去年からじわっと一回り大きくなった。葉っぱもつんつんぴかぴかとんがって元気がいい。
家を片づけるついでに、子どものころに読みかけてそのままになっていた(めったにないことなんだけど。大抵の本は暗記するほど何度も読んだのに)童話を読み上げて変な達成感を得たりしている。トルストイ(有名な人じゃない方。笑)の『ニキータの少年時代』をそうやって読み上げた。それぞれの場面は印象的で夢のように覚えているのに、どうしてか読み通せなかったのは、これがむしろ童話というより純文学っぽいぐらい、作為がなくてリアルだからかもしれない。母がよく感心していた、ロシア文学の風景描写の細かい美しさ、豪放磊落な父と堅実で繊細な母、親戚の少女との恋、農村の日照りの苦しみ、などなど、とても淡々として複雑だ。こんなにすごい高齢になって、読み通せたのは何だかとても幸せである。
作者は『苦悩の中をゆく』という小説も書いていて、これは私は文庫本で中高のころ読んだ。何一つと言っていいぐらい覚えてないが、好きだったのはぼんやりと記憶にある。あれも田舎の家のどこかに残ってるのだろうが、もう読み返す時間はないだろうな。
西鶴の「新可笑記」を読み上げたので、今は「西鶴織留」に入った。悪くない悪くない。私は海外ドラマを見るときは、知らず知らず数回見ては筋を覚えようとしている。西鶴の短編集でも無意識にそれに挑戦してしまうのだが、覚えられないものだなあ。
前にいくつか紹介した以外には、いい殿様だけど、趣味に走って変な噂にふりまわされて、三毛猫のオスをさがす人だとか、川っぷちで産み落とされて、娘になってから死んだ母のことばかり懐かしんでる女性に、イタコみたいな人が母になりかわって説教して現実に戻させるとか、人の世話をしていい意見を出すのが得意になったあまり仕事で立ち入った大名家でいらんアドバイスをして墓穴を掘る男とか、そんなのを断片的に思い出すだけだ。もう一二回読んだ方がいいのかな。だけど、集中講義の準備用に和歌を拾い出す作業もしたいしな。それで「桂園一枝」なんて有名な歌集なのに、現代語訳や手軽な解説書も出てないのかとわかって、ショック受けてる。
すずしさの大路の柳陰ごとに馬もくるまもいこはぬぞなき
行く雲もほたるの影もかろげなり来む秋ちかき夕風のそら
とか、素敵な歌がたくさんあるのにな。