そっとしておいてさえくれなかったなあ
猫のカツジはおさしみをわけてもらって、顔も目元もお湯で拭いてもらって、ぎゃあぎゃあ騒ぎながら、ブラシをかけてふかふかにしてもらって、廊下のかごの中で気持ち良さげに寝ている。庭に水はまいたし、冷蔵庫の食材も料理して片づけた。今日も暑そうだから、エアコンをつけるが、その前に換気をしようと窓やガラス戸を開けて扇風機を回している。まあ、つかの間の休息ってとこだ。
周木律の「教会堂の殺人」の感想をネットでのぞいたら、主要人物の一人の退場にショックを受けて嘆いている人が多かった。今朝つい、続きの「鏡面堂の殺人」を開けてみたら、そういうファンの悲嘆を慰撫し共有するためもあろうか、その人物の喪失を深く嘆く残された人の日々が細やかにつづられている。
これで慰められたり悲しみを新たにしたりする読者も多いのだろう。いなくなった人は私もなかなか好きだったから、それはそういう読者と同じなのだが、それ以上に「ああ、こんなに誰かがいなくなったとき、その後の生活の心配もなく、職や立場を失う心配もなく、皆が消失の悲しみをわかって、最高の対応をしてくれるのって、まあ普段の行いもあるのだろうけど、何という恵まれた環境だろう」という、情けない羨望を少し抱いてしまう。
これだけ、時間も気にせず何も気にせず、ひたすら悲しみにひたれるって本当に前世でどれだけ功徳を積んだ人なのだろう。
思えば祖父母や叔母や、愛猫や母が亡くなったとき、私は一度も泣いていないし、それ以後も涙したことはない。それらの人たちと同じぐらいに大切な(笑)自分の晩年の研究資料が失われたときもそうだ。嘆かなかったし落ちこまなかった。それどころか、これからどうするか、さしあたりどうするか、恐くて必死で対応に追われてばかりいた。
まあ、猫の何匹かについては比較的きちんと嘆いてやることもできたし、それが救いになりもした。でも、忙しい会議や仕事の間に、その時間が確保できるかどうかは、かなり必死の綱渡りだった。
そして、最初に飼った初代猫おゆきさんについては、それができなかった、それをさせなかった母への愛を私は失ったし、そのことも含めて、母の死の後にゆっくりと気持ちを整理し、悲しみにひたろうと思っていた時間を、結果として奪った政治活動をともにしていた人たちへの感情を私はなくした。(そのことは、今度電子書籍で出す「断捨離潜水艦」に書いてある。まあ、未整理っぽいが、ブログのこれの最後の方でも読める。)更に、貴重な資料を失って茫然自失の状態で半分廃人になっていた私へ、大きな仕事を依頼して来た同じ人たちへの距離感は、決定的なものになった。
何かを失った時に、いっしょに悲しんでくれとか理解してくれなどということは、初めから誰にも望んでいない。
しかし、私が自分のために確保しようとした、一人で悲しむ苦しむ泣きわめくわずかな時間さえ、許してくれない人たちに、どう対処したらいいのだろう。私自身さえも私から奪って、自分たちのものにしようとする人たちのことを、どう考えればいいのだろう。
私は悲しみも苦しみも基本的には人に見せない。「みな人にそむきて一人われゆかむわが悲しみは人に許さじ」という若山牧水の歌は、中学校のころからもう、私の骨身にとけ込んでいた。私の大切なものを失った悲しみなど、他者にわかってもらおうとするのが無理だ。私にだって、きっと他人のそれはわからない。
だから普通に仕事をし、生活をする。必要な助けは求めるし、現状の報告もする。しかし、そういう時の私は、まともな人ならたいがいはそうだと思うが、明るく事務的に笑いながら話すし行動する。実際、無理をしているわけでもない。失ったものや人は、いつも私とともにいる。
それでも、平気ではないし、疲れてもいる。だがそれが、同じ体験をした人ででもなかったら、決して相手には伝わっていないと思うことがある。もしかしたら、自分にそういう体験があっても、私はもっと強くて特別で大丈夫なのだと思うのかもしれない。
思えば母もそうだった。私が子宮筋腫が悪化して入院手術する時に、母は心配するよりも長年使っていた家電が壊れたように不愉快そうで、手術の直前か直後かに病院からかけた電話でも、私の身体の心配は一言も言わず、台所の冷蔵庫の話ばかりしていた。いやな現実を無視したいのだろうと思ったから、気にはならなかったが、その母が亡くなったり、さまざまな厳しい状況で、期待される仕事ができなくなったりした時の周囲の反応にも、今似たようなものを感じる。ああ、私って結局便利な家電なのね、と。もちろん、それでいい。それ以上の関係は私の方で、ずっとむしろ拒否して来た。
もっと目に見えるように、へたれて、やつれて見せればよかったのか。私がやせこけて、髪を乱して、家を散らかして、青ざめて、よれよれになりながら、少し休ませて下さいとか言った方が話が早く通じたのかしらね。シェイクスピア「尺には尺を」で、ヴァイオラがオーシーノーに、女の恋は表には出ないと語る場面も思い出す。
私の苦しみや悲しみを察しろなんて言わない。救いの手なんかさしのべてほしくもない。そんなのは逆にうざいし、いらん時間を取られるだけだ。私は頼めることがあれば、すべてきちんと頼んでいる。要求も依頼もちゃんとする。私の指導した学生の現研究者が私について言っていることで、私が気に入っているのは、「先生が言われたことは、すべて、その通りに受け止めることにしている」ということだ。私の気持ちや言外の意味を忖度したり推測したりすることなど、どんな人にも千年早い。
だがせめて、だからせめて、私が自分のために確保した時間だけは、私のために手をつけないでいてほしい。それを確保するために私がしている、最低限の協力やサービスを、「まだ大丈夫」「まだできる」と思って、どんどんそれ以上の要求をして来られると、たとえそれがどんなにまれな場合でも、私にとっての破壊力は途方もない。そして、最終的に、私をそういう相手や仲間から、決定的に遠ざける。
いやでも、書いてて虚しくなるのだよなあ。こんなこと書いたって、恐縮して反省するのは、もともとそんなこと絶対にしない人たちで、わかってない、わからない人たちは、こんな文章いくら読んでも、口で言っても、絶対わかりはしないのだから。
後悔なんかしていない。選択の余地なんかどこにもなかった。それでも、少なくとも母の死後、思いきり誰に気兼ねもなく悲しみにひたる時間をもし持てていたら、自分で必死でプロデュースしていた、その時間と場所をきっちりと使えていたら、今の私もこれからの私も、ちがった人間になっていたのかもしれないと、時々強く思うことがある。私が自分の貴重な本や資料を善意から破棄した人たちを、あまり怒りもしていないのを不思議に感じている人もきっと多いだろうが、それを言うならその前に、母と別れを惜しむあの時間を私に許さなかった人たちのことを、すでにその前に、私は怒らなかったのだから、それに比べればどうってことないという気さえするのだ。
一人暮らしで、自分の現在も未来も、自分の老化や劣化も含めて、常に自分で裁量し決めて行く、他者に救いを求めることも含めて、その予定を常に考えている人間のすることは、時にものすごく微妙で緻密でのるかそるかの計画に基づいていて、普通の基準で測れない。そのことだけは、理解しておいてほしいと思うが、しょせん無理だとも最近思う。その分こっちも他者に対して、鈍感で無神経になることでしか対抗策はないのかもしれない。
あ、そう言えば、私が電子書籍で出してる「いらいらもいろいろ」を読んで、「こんなにいろんなことにいらいらしている人がいるんだとびっくりしました」と言った人がいるんだけど、その人、多分私だけでなく、周囲もしょっちゅういらつかせてるという点では多分、私の知人の中でも余裕で十指に入る人だったりした(笑)。
まあそんなもんだよね。見習っといた方が長生きできるのかもしれない。