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それじゃもつまい

「虹と光と」やら「断捨離シリーズ紹介」やら、大作というか連作というか、時間のかかるものを書きまくってたら、日常のおしゃべりがまったくできずに、欲求不満(笑)。おまけにここ数日の猛暑で体調を崩したと見えて、やたら眠くてやたらだるい。

こんなに疲れるというのも、「断捨離シリーズ」で、自分の貴重な資料を捨てられた体験を、またふり返っている内に毒にあてられてしまったような気がする。災害や戦争やレイプの体験を思い出せない、思い出したらおかしくなる人たちのことを全然笑えない。

あの体験の直後に私はけっこうな大病をした。今までそれを結びつけて考えたことはなかったけど、もしかしたら、肉体的にもそこそこダメージをくらっていたのかもしれない。

それでも何とか、七夕飾りはでっちあげた。昨日はお天気だったから、彦星と織姫も会えたかな。

今朝、NHKがあさイチで、珍しくというか初めてというか、新しいかたちのデモ(静かに座って戦争反対を訴える女性や若い人たちのデモ)を、かなりていねいに、好意的に紹介していた。こんな形ででも、報道してくれるようになったのはありがたいが、それだけ、国会も首相もぐたぐたになってるのかもしれない。

ここまで書いて、また数日。周回遅れの話題やら、記事の時間的前後は何とぞお許しを(笑)。

朝ドラ「風、薫る」は、そこそこ面白く見続けている。一度脱落しかけたのは、主題歌について出演者の研ナオコさんが、ほめそやして、歌っているグループだか歌だかを「世界でも一番すばらしい」とか言ったので、あんた世界の歌や歌手を全部聞きでもしたのか、本当に役どおりの裏町の怪しげな占い師そのものだなと、うんざりしたのが原因だ(笑)。

そもそも別に世界の歌を聞かなくたって、今再放送中の中島みゆきの「麦の唄」やら、前回の「ばけばけ」の「笑ったり転んだり」やらの名曲と聴き比べてみただけでも、とにかく滑舌が悪くて、何を歌っているのやら歌詞がちっともわからない。研ナオコさんのその発言のときに、番組が言ってた、「私は奇跡の」なんとかという部分は、一番の売りらしいけど、そもそもその部分も、いまだにはっきり聞き取れない。

というか私は、あの歌で最初に聞き取れたと思ったのがその部分の歌詞だったのだが、それは「私は奇跡のアイネクライネ」で、はあ、やっぱ看護婦の話だからドイツ語が入ってるのかと思ってた。その他の部分はいまだに聞き取れないし意味もわからない(笑)。

まあそういうのは、別にどうでもいいことで、研ナオコさんがつまらんことを言ってほめなければ気にしなかったから、キジも鳴かずば撃たれまいにみたいなことではあるんだけど、それより、ここんとこ数回の、ヒロインの「死なせた患者」が苦になって、トラウマだかイップスだかになってる状況が、いやまあ最初に書いた自分の体験を思えば、私も人のことは言えないが、あれではそれは医師や看護師などの仕事は無理でしょうとは、つくづく思う。

もっとも、これは私の祖父が村医者で、家族の住まいと診察室がつながっていたためもある。診療所に患者さんが来て、悲鳴やうめき声や絶叫や、時には亡くなる人もいて家族の泣き声がしていたりしても、祖父も看護婦役の祖母も、平気で普通の顔で、住宅部分のドアを通って食事に戻り、私たち家族はテレビのお笑い番組などで毎日楽しく談笑していた。

叔母夫婦も医者だった。富裕層のはしくれで、よく学生だった私を豪勢な食事に連れて行ってくれた。和食洋食その他最高のごちそうの食事を三人でしている時、病院からはよく電話がかかった。そのころは、まだ持つ人も少なかった携帯電話で、叔母はてきぱき応対し、危篤状態の人の処置や、亡くなった人の手続きを看護婦さんや事務の人に指示していた。そして電話を切るがいなや、「ああ、おいしそうな鯛ね」とか「やっぱりこのドリアは最高ね」とか、肉が柔らかいワインがおいしいケーキがかわいいと、心から食事と会話を楽しんでいた。

そんな日常を私は普通に生きていた。扉の向こうや電話の先には、苦しみや絶望や悲しみや痛みがうずまき、誰かにとって大切な人が消えていくのがわかっていた。それでも子どものころから私は、そういうもので、どんな痛みも苦しみも悲しみも、医者や看護師などにとっては、鯛のさしみのおいしさや、家族団らんの楽しさを、損なうことはないと知っていた。それは自分が患者になり病人になっても、そうだろうと思っていた。それが当然で、そうでなくては困るし、いちいち傷つき同調していたのでは、そんな仕事は一日もできないだろうと理解していた。今もそうだし、これからもそうだと思う。
 あのヒロインのような看護婦にいてほしいだろうか。私は絶対に困る。それこそこっちが死ぬに死ねない。友人でも家族でもない相手に、そんなべたつく感情移入をまぜた看護はしてほしくない。出過ぎたまねだ、傲慢だ、不愉快きわまりないとさえ思う。

もっともさ、それのついでにまた思い出す。これは私が就職してまもなくのこと。仕事に疲れて、たまには華やかな贅沢をささやかにしてみようかと、なけなしのお金をはたいて、レストランにステーキを食べに行った。店はわりとすいていて、それで気を許したのかもしれないが、かなり離れた席に、女性二人が座っていて、これがどちらも看護婦さんだったらしく、私の席にまで聞こえるような大声で、患者の処置や排泄の処理について、延々しゃべりまくっていた。こっちは、大枚はたいて心身ともにリフレッシュしようと思っていたのも台無しで、大小便やら膿やら血やらの話で、ぐったりしたのを忘れない。看護関係医療関係の人というのは、そういう意味で、こよなく鈍感になり世間知らずになるものでもあるとあの時つくづく思い知った。

まあこんなことを朝ごはんの間にいろいろ思い出すというだけでも、けっこういいドラマなのかもしれないけどね(笑)。

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カツジ猫