アンボンで何が裁かれたか
高市首相がオーストラリア訪問中、同地の戦争記念館の無名戦士の墓に、床にひざまずいて(ほとんど平伏して)献花したことが、話題になっている。アジア人にはしないしぐさではないか、白人への迎合ではないかとの批判もある。
映像で見ると、たしかに少々異様であるが、何だかああでもしないと花を供えにくい作りになっているような気もするので、抱きついたり飛び跳ねたりするのと同様、とまどったはずみにとっさにやっちゃったような気もしないじゃない(笑)。
「そんなことより」何だか気になることがある。
もう三十年ほども前、映画「グラディエーター」にはまりまくって、その前から好きだった主演のラッセル・クロウにも同じくはまって、彼の出演する映画を見まくっていた。今では貫禄充分のおっさんになっている彼も、若い時には細身の繊細な青年だった。それだけではない。豪快でメジャー志向のように見られがちな彼は、初期の初期から、とことんまじめな良作を選んで出演していた。
デビュー作の「アンボンで何が裁かれたか」は、日本とオーストラリアの戦後の戦争犯罪を描く、複雑で鋭い社会派の傑作だ。日本でも公開され、映画館で予告編を見た記憶があるが、その時はまだ彼を知らず(脇役だったし)、後にDVDで見た。
その後、ハリウッドデビューする前、故国のオーストラリアでいくつかの作品に出演している。どれもどちらかというと地味な作品だが、彼の演技は今と同じに良質で誠実だ。
その中に「ヘヴンズ・バーニング」という映画がある。工藤夕貴も出演している。まあどうということもない男女の逃避行もので、細かいことは私も覚えていない。
ただ、強烈に印象に残っているのは、主人公たちの逃避行中に立ち寄る先の、主人公の父親が、後に女性を追って来た日本人たちに殺される前に、第二次大戦中に自国を侵略した日本人に対する激しい呪いと憎悪とをこめて罵倒した場面だった。
それは、筋には関係なく、何の伏線でもなかった。なのに自然に登場したそのことばで、私はそういう感情が、オーストラリアの少なからぬ国民、ある意味罪のないサスペンス恋愛ドラマを見る人たちの中に、普通に存在し、共有されてうけいれられる感情なのだと否応なしに理解した。
より細かに両国間の戦後処理を描いた「アンボンで何が裁かれたか」と重なって、日本がかつての戦争で、この国に与えた傷の深さと記憶のあざやかさを、初めてつくづく思い知らされた。中国での日本軍の行為については、それまでも知らされる機会は多く、自覚もしていたつもりだったが、オーストラリアでのそれが、どういうものとして現地の人々に共有されているかについては、それまでまったく知らなかった私にとって、それはラッセル・クロウが私にくれた大きな贈り物のひとつでもあった。
しばしば指摘されるように、高市首相はかつて、日本の戦争犯罪について「少なくとも私自身は、当事者とは言えない世代ですから、反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもないと思っております」と、国会の場で明言しており、その修正も取り消しもしていないままである。対戦国だけでなく、戦争犯罪に関わった日本の軍人や兵士たちまでが、血を吐き身を刻むような苦しみの中で体験した矛盾や理不尽の数々までも、「その時まだいなかったから」と無視しているかに見える人は、どのような思いで、対戦国の兵士たちの墓にひざまずき花輪を捧げたのだろうか。そして、オーストラリアの人々は、彼女の歴史や過去に関する姿勢や発言を、どれだけ知っているのだろうか。
知りたくもあり、知りたくもない。
友人が送ってくれた古米や古古米の十五キロ袋を二つ、玄関に放置していたのを、昨日一念発起して台所まで引きずりあげました。これで、うまく行けば今年いっぱい米は買わずにすむのではないかしら。
それにしても私と同い年の友人は、これをいったいどうやって宅急便の店まで引きずって行ったのだろう。今度電話で聞いてみよう。
庭のガザニアの侵略ぶりがすさまじくて、もはやもうどうしたらいいのかわからない(笑)。

