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コロナが与えてくれたもの

私は大学生のころ、学生運動というか自治会活動をずっとしていたし、共産党にも入っていた。そのへんのいきさつは、「私のために戦うな」の「闇の中へ」を見ていただきたい。または小説「従順すぎる妹」を読んでいただいてもいい。心理的には「水の王子 第三部」の「都には」が当時の私の心象風景を描いたものだ。

ともかく大学四年の夏休み、私はそれらの活動から離れた。大学院の入試の準備が忙しかったこともあるし、加藤周一「羊の歌」を読んだのも、何かのきっかけにはなったかもしれない。しかし、そうするにあたって、私は夏休みいっぱいを使って、自分の中のあらゆる感情や思想を整理し点検し、文章に残した。それは多分まだどこかに残っているので、気が向いたらアップしてもいいかもしれない。

言いたいのは、自分がどう生きるか決めるのに、それだけ膨大な時間と孤独と集中を私が必要としたことだ。少し前に公明党の人たちへ向けた文章を、このブログで書いたが、何かを真剣に信じ献身した人たちが、それを軌道修正したり、まったく方向転換したりする時のエネルギーというのは、測り知れないものがある。

自分は特にそういった信仰や思想信条はないから関係ないと思っている人がいたら、それもとんだまちがいで、この世の中に無色だの中立だのというものは存在しない。特定のそういうものがないと思っている人でも結局は皆、適当に何かの思想や宗教に染まって生きている。今の私だってそうだ。それが何なのか、自分の立場はどういうものなのか、それを考えたり迷ったり見つめたりするのは、誰にとっても大切なことだ。安全確保のセキュリティ対策としても必要だったりする。でないと精神のバランスをなくしたり、最悪自分で命を絶ったり、たまたま行き当たった変な信仰にはまってしまったりもする。

だが、ここ数年、私でさえも、そのように自分を見つめ直したり気持ちを整理したりする時間がさっぱり取れない。朝から晩まで一年中、とにかくあまりに忙しすぎる。自分が直接携わっていなくても、ついつい世の中が騒然としているから、つられてしまう。

正月になれば、つい雑煮を作り初詣に行く。節分にはつい豆をまき、バレンタインデーにはついチョコを買う。ひな祭りにはついひなを飾り、こどもの日にはつい鯉のぼりを飾り、連休にはつい遊びに行き、お盆にはつい墓参りをし、ハロウィンにはついかぼちゃを飾り、クリスマスにはついツリーを飾り、その間に地域の新年会、運動会、盆踊りがあり、博多どんたくや山笠があり、相撲に野球にサッカー、ラグビー、フィギュアスケートの結果を見てしまう。映画は次々公開され、小説も研究書も続々新刊が出る。また家族や猫や犬の命日もあり(笑)、「むなかた九条の会」関連の会議や催しも毎月あり、専門分野の学会や研究会も毎月ある。家族がいたり、職場に現職で出勤している人だったら、もっといろんなイベントが加わるだろう。

お祭りもイベントもスポーツもいいものだけれど、息抜きとか癒やしとかいうより、ノルマとして薬物中毒として今の世の中では機能しているように見えてしかたがない。少なくとも私はそうだ。参加しないと不安になり、現実逃避のために甘いものをむさぼるように、そういうものをつめこんでいる。何かを考えまいとして。何かを見まいとして。

江戸時代までにさかのぼらなくても、私の幼いころには、イベントやスポーツの種類も少なかったし、こんなにのべつまくなし一年中やってもいなかった気がする。本も映画も、油断していたらあっという間に消えてしまうほど回転率も早くなかった。流行歌は何年にもわたって同じ歌が歌われて、誰もがそれを知っていた。

「セックス・アンド・ザ・シティ」でユダヤに改宗したシャーロットが泣く泣くクリスマスツリーを永遠に片づけるけれど、日本の場合は宗派に関係なく、あらゆるイベントで国中大騒動になる。四六時中騒がしく、何かを静かにじっくり考える余裕などない。
こういったイベントに関係なく生きている人はと言えば、それはそれで、試験や大会や業績や評価をめざして、死にものぐるいで勉強や練習や営業をしており、世の中のことや過去や未来や自分の内面のことなどに目を向ける時間を持つどころではない。

そして、こういうイベントづけか、必死の全力疾走かに参加できなくなった人は、これまた一気に人間扱いされなくなって、社会からドロップ・アウトし、ホームレスとかそういう生活をはじめるしかない。そうなった人たちに目を向ける時間も、普通の人たちには持つ余裕がない。

コロナとともに生きる近未来がどうなるかは知らないが、私はこういう状況が少しでも変わればいいと思っている。芸能人であろうとなかろうと、誰もが政治や社会に関心を持ち、自分自身の信仰や思想やそれに匹敵するものを養い育て、それを常時点検して、変えたりすることも可能な力と時間とを持てるような暮らしを保障する世の中を作りたい。

今日は、かなり遅れたけど、叔母の命日の小宴ということで、仏間でテレビを見ながら、お弁当とケーキを食べた。ついでに散らかっていた居間を強引に片づけて、ちょっと以前のホテル風?のきれいな空間に戻した。仏間はあと一息で片づきそうだし、次は台所を喫茶店風にきれいにしたい。毎朝仏間に行くたびに、天窓から明るい日差しが降り注いでいる台所の様子にうっとりしつつ、早くもっときれいにしたいと、やもたてもない思いにかられるのだ。
居間を片づけたと言っても実際には押入れに未整理の荷物を押し込んだだけって気もするが、まあそれでも、押しこめる空間が確保できてきたってことだもんよ、と自分をなぐさめたりしている。

本当は、この状況って、2月には達成しとくべきだったのよね。予定がほぼ半年遅れてることになる。まあ、腐らないでそこそこがんばっとこう。

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カツジ猫