六年生の夏(29)
私もけっこう、ぎりぎりになって、宿題片づけているんですね。いやはや。
8月28日 木曜 天候◎ 起床6時0分 就寝11時30分
朝っぱらから「私の読んだ本とその舞台」の製作で、てんてこまいをした。まず、本の分類から始めたが、いつ終わるか見当もつかない。そこへ母が来て、私を見てゲラゲラ笑った。
「何さつあるんね。」「さあね。ともかくこっちはいそがしくってさ。」「大きい画用紙に書くんやろ。一まいにそれだけも書くのね。」「いや、二まいよ。」「二まいでも75さつがいいとこよ。皆で何さつ。」
私はていねいに数えると、何と182さつもあった。仕方ないから、少しずつへずっている所へ、安本さんが姉さんのゆきちゃんと二人で、テレビ見せてと行(ママ)って来た。あいにく、面白くもない、人形文楽だったので、二人ともおしゃべりをはじめた。それによると、どことかのだれとかさんの子供が日本のう炎で死んだそうだ。かわいそうにはちがいないが、本人は眠りながら、死んだのだから楽は楽だったに総意(ママ)ない。安本さんは熱心に、「死んだらどんな顔になるじゃろうか。きっとこんな顔やろう。」と言って口をポカンと開け、白目を出して、私の方を見てニヤニヤして見せた。写真に、とっておかなかったのがくれぐれも残念だ。
この自由研究?については、こちらにも、かなり詳しく書いている。そして、この写真のが、この時私が作っていた、小学校六年生の時の一枚のようだ。他の十枚近くは、中学校で追加して作ったものらしい。
もう鉛筆の文字も色あせて見にくいですが、しつこくアップしておきます。パネルにしといてよかったわー。
さて、この当時、日本脳炎はかなり流行っていて死者も多かった。私が大学生のころまでは、予防注射も例年行われていたのではなかったかしら。
そして、テレビはまだほとんどの家になかった。次第に増えて行ったころ、安本さんは、自分の家にまだテレビがないことが恥ずかしいと言って、「アンテナだけでも屋根に立てておきたい」とよく言っていたっけ。
当時はチャンネルもNHKだけで、しかもモノクロ画面だった。それでも、皆よく連れ立って家族で、テレビのある家に見せてもらいに行き、部屋の電灯も消して映画館のようにした中で、十人以上が一生懸命画面を見ていた。
何だか、ここに来て誤字が増えているのは、なぜだろう。(ママ)で記しておいたけど。注意深く見ていると、この日記、ときどきまれに母の文字で小さい添削のあとがある。彼女が一応チェックしていたのかもしれないが、最後の数日は見逃したってことかしら。
それから私がカメラを祖父に買ってもらったのは、もっと後だったような気がするから、「写真にとっとけばよかった」は、ただの言葉の綾かもしれない。