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六年生の夏(4)

あ、やっぱり気のせいじゃなく、朝夕の風はひんやり冷たくなって来ている。とは言え、猛暑に変わりはなく、今日の気温も三十七度だとか何とかラジオで言ってた。それに比べて、六十五年ほど前の、この涼しさはどうだろう。25度だってさ。昔の日記の記録も捨てたもんじゃない。

8月2日 土曜 天候◎ 温度25度 起床六時 就寝十二時十五分

今日は、宇佐のお祭最後の日だ。そして母が学校からの頼みで少年少女の補導に、その宇佐に行く日だ。母がブツクサ文句を言いながら出かけて行った後、すぐ安本さんが来た。色々な事をして遊んだが、おばあちゃんが、病気でとなりの部屋にねているので、ドタバタあばれられない。トランプやおはじきなんてたいくつな遊びはまっぴらだ。しかたがないから本を読んだ。おおよそ、三十分ほどたって、ひょいと安本さんの方を見たら、いい気持そうに、スウスウねている。
「おやおや。」と私はつぶやいた。「この調子じゃあ、何時間眠り続けるか、わかったこっちゃないぞ。四時までに起きりゃいいけど。」その時、いきなり玄関が開いて、母の声がした。「どうして今頃帰って来たの?。」と聞くと、補導所がわからなかったと答えた。のんきなもんだ。安本さんは私の予想通り、四時までねむりつづけ、私に起こされてねぼけたような顔をして夕刊を配りに帰って行った。

安本さんの家は駅前通りの新聞販売店だった。昔は珍しいことではないが、兄弟姉妹が五人ほどいた。そして今思えばすごいことだが、相当広範囲の新聞配達を家族全員でやっていて、私と同級生の彼女も、その一人として一日も欠かすことなく、毎日夕方四時になると配達をしに帰っていたのだ。朝はどうしていたのかしら。やっぱり配っていたのじゃないだろうか。農家でもどこでも、小さい子どもたちは一人前の立派な労働力だった。帰ったら牛や馬の世話をするのなど普通だった。そんなことを何もしないで、本だけ読んでいた私が勉強ができて成績がよかったのは、あたりまえのことで、それは私も理解していた。
 毎日、四時近くなると仕事に帰らなくてはならないことを彼女はいつもいやがっていたが、それを嘆いたりしたことはなく、私たち他の子どもも同情も尊敬もせず、ただそういうものと思って、おたがいにあたりまえのようにつきあっていた。

一度、彼女がけがか病気か何かで配達ができなくなり、私たち同級生の数人が一時期代わって配達をしてあげたことがある。おだやかでものしずかな彼女のお父さんは、そのことを美談として地元の新聞に書いてもらおうとなさったのだけど、私は「そんなつもりでしたことじゃないから」と、かなり強く断って、その話はなしになった。でも、考えてみたら、他の友だちは何も言わなかったし、私に文句も言わなかったし、かげでも、一人でも決して不満は抱かなかっただろうと信じられるのだけど、本当は記事にしてほしかったのじゃないかと思う。私はそういう、皆の気持ちにまったく気づかず正論やプライドをふりまわして、周囲を何となく悲しませたりがっかりさせたりする子どもだった。今もまだそういうところがあるかもしれないと、何となく今もなまなましく、そんな自分が恐いし、悲しい。

写真は、家の門から玄関を見たところ。この家はもう、友人に買ってもらって、今は私のものではありませんけど、まだ自分がいるような気がしてしまう。

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カツジ猫