1. TOP
  2. 岬のたき火
  3. 日記
  4. 大河ドラマとタブー

大河ドラマとタブー

これ、昨日の蚕のチョコつながりで、やっぱりシルクロード展のおみやげグッズなんだけど、金色の蚕の飾り。安かったのよね、値段忘れたけど(笑)。何百円かじゃなかったっけか。

庭の草取りをサボりまくって荒れ果てさせている間に、柿の若芽が美しく登場した。あせるよう。

こちらは先日買った赤い花。ユキヤナギにまぜて挿していたら、もうずいぶんになるのに、とてもしゃんとしていて、びっくり。枯れたユキヤナギを捨てて、もう散りかけですけど、新しいのを補充しました。

玄関のも、しゃんとしてる。

まだ当分先のことだけど、後期の文学史の授業で、学生に手っとり早く、源氏物語のあらすじを説明するのに、人物関係のわかりやすいきれいな図とかないかしらと、本屋に行くたび、つい大河ドラマ用の特設コーナーをのぞいて、けばい、高い図録だかパンフレットだかを買ってしまうものだから、ただでさえお金がないのに、食べ物を買うにも不自由している。しかも最近、明太子と魚の糠漬けにはまってしまって、これが地味なようでいて、相当高いんだよなあ。

で、そういう本の記事をつれづれなるままに読んでしまうのだけど、えー、私が見落としているからなのかもしれないけど、少し前にここで書いた、「平安時代、身分の高い女性は基本、日常、絶対に成人男子に顔は見せない」って、今から考えると驚愕の事実を、はっきり書いてるものが一冊もないなあ。これは大河ドラマへの忖度なんだろうか。何だかちょっと恐ろしくなる。私は忙しくて、あいかわらずドラマをしっかり見ていないのだけど、れっきとした立派な女性が、顔もあらわに男性と道や庭で会ってしゃべってる映像なんか見ると、言ってみれば、彼女たちがすっぱだかで男性と向き合っているような感じがして、とても落ち着いて見ていられない。まあいいや、後期の授業で学生たちにしゃべることがしっかりひとつできたから。

まだ源氏物語にそうなじめない幼いころに、それでも印象深くて好きだったのは、終盤に登場して悲劇の種をまく、おっとり無邪気な女三の宮が、屋敷の端近に立っていて、飼っていた猫が走り出して紐が御簾にひっかかって巻き上がってしまい、庭にいた貴公子柏木が、彼女の姿を見てしまって、もともと気になっていたのに、もう恋に落ちまくってしまう、あの流れだ。

友人の夕霧もそのとき、いっしょに彼女を見てしまうのだが、彼は、むしろ、「あの身分の高い人が、ひょっとこういうことがあった時の用心もしないで、御簾のそばまで出て来てしまっている」軽率さに幻滅している。彼も、それ以前に野分(台風)のときに、かけつけた屋敷の簀子や御簾がこわれて中が見えている時に、ちらと紫の上を見てしまって、その美しさに打たれ、ずっとひそかにあこがれる。でもそれは大嵐という非常時の、それも本当につかの間で、紫の上はすぐに見えなくなったので、「すぐれた女性はああいうのが当然なのに」と、女三の宮と比べて、あらためて内心で賞賛している。

夕霧の秘め続けた思い、柏木のやるせない懊悩、どっちも終盤の大きな伏線で、読者をはらはらさせつづける重要な要素なのだが、そのどっちも、「見てはならない大人の女性を他人の自分が思いがけず見てしまった」ことが発端になっている。夫でも恋人でも幼児でもない男性に、ちゃんとした女性が姿をあらわにすることは、それだけタブーであり得ないことだったのですよ。

まあ大河ドラマでその設定が無理だから、無視することにしたってんなら、それは別に自由だし、かまいはしません。だけれども、「実はあの時代はこうなんですけどねー」と話したり書いたりもまったくできなくなってるとしたら、それはやっぱりすごく問題だろうがよ。いろんな点でさ。恐いし、気持ち悪くないですか? 何となく。

自民党の二階氏が次の選挙に出馬しないそうだ。そのこと自体は総合的にはいいニュースだが、記者にバカ野郎とどなるとか、最低の引退会見だったらしい。よっぽどくやしかったか、よっぽどなめてんのか、いずれにせよ、こんなこと言わせっぱなしにしてはいかんよなあ。

Twitter Facebook
カツジ猫