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映画「オデュッセイア」感想(3)

私がこの映画にすごく感心した理由は、原作の盛りだくさんな内容を無駄なく整理しているだけでなく、ほんのちょっとした挿話というより、小さな記述を抜かさずきっちり入れていることだ。

オデュセウスを待ち続けた老犬の話も、決してしつこくなく、ものたりないほどさらっと、でもちゃんと描いている。それだけじゃない。最後の広間での地元の貴族の若者たちを敵に回して、ほんの数名で勝利する激闘の中で、それほどまでに敵を圧倒した理由は、さすが智謀で知られるオデュセウス、前もって、敵や屋敷内の武器を、別の部屋に集めて鍵をかけて使えなくしてたことが大きい。

それが戦いの中盤で敵の一人がそれに気づいて鍵をあけ、中の武器を味方に配ったことで、危うく形勢が逆転しかける。これは息子のテレマコスがうっかりしていたせいで、それを指摘された息子は急いで、武器庫に行って、扉を開けた敵と戦い、もとのように武器庫を閉ざして、敵の武装をくいとめる。

ここは映画でも派手な戦闘場面で、そのいきさつは目立たないのだが、それでもはっきり、この「武器の調達」を巡る攻防が勝敗を左右したことが、混戦のなかでもはっきりわかるように位置づけられている。原作をすごく尊重して、充分に活かしている。

もうひとつ、オデュセウス一行の帰途の試練のひとつに「ローレライ」の歌でも有名なセイレーンの島の話がある。人をまどわす美しい歌声で通過する船の人々を夢中にさせて、船を難破させる魔女たちの話だ。(この映画を見て、あらためてなつかしくなり、同僚の書いた、ドイツの歌や詩についての本を読み直したりしている。)

オデュセウスは部下たちの耳を蜜蝋でふさがせ、自分はマストにしばりつけさせて、決してほどくなと部下たちに命じて、この危険を乗り切る。そうやって、実際には歌を観客にも聞かせない映像処理も巧みだが、私が喜んだのは、しっかり耳に蝋をつめてなかった、船尾の乗組員の一人が、歌を聞いて海に飛び込んで島に向かって行ってしまうことだ。もちろん死んだのだろう。

彼が船から身を投じて島へ向かって泳いで行く短い映像は、映画の流れの中でまったく自然だし、効果的でもある。でも実はこれもちゃんと原作にあるのだよね。それもたった一行だけ。他愛もないけど、知ってる者にはめちゃくちゃ楽しい。

その一方で、ばっさりカットされてるエピソードもある。でもそれにもちゃんと理由がある。

一つはジブリの「ナウシカ」も多分これからとったんじゃないかと思う、「オデュッセイア」の冒頭を飾る、王女ナウシカとの交流だ。

ナウシカはどっかの国の王女で、ある朝、侍女たちといっしょに浜辺に出て、まり遊びをする。多分オデュセウスひいきのアテナ女神がその気にさせたんだろう。そうやって彼女らが浜辺で遊んでいると、度重なる災難で部下も全部なくし、船もなくしたボロボロのオデュセウスが裸で海から上がってくる。

当然侍女たちは仰天して逃散るが、なぜかナウシカだけは恐れずに、オデュセウスを迎える。これもアテナ女神が彼女に勇気を与えたのだろう。彼女は侍女たちもたしなめて、オデュセウスを父王の館に迎えて歓迎する。

ちょっと待て、これは話の冒頭で、何でもうオデュセウスは一人でボロボロになってんだと、皆、とまどうだろう。そこが、この「オデュセウス」のすごいとこで、紀元前数千年の人類最初の文学をバカにしちゃいけない。
 華やかな歓迎の席でオデュセウスが沈んでいるのを見た、王女と王は、そのわけを聞く。すると、オデュセウスは自分の出自や経歴や、トロイ戦争や、その帰途の冒険の話を、語って聞かせるのだ。

わかりますか? 「オデュセウス」の長い冒険談の大半は、ここで彼が語る思い出話なんですよ。すごい構成でしょうが。
 これ、滝沢馬琴が「稗史七法則」という理論にまとめた、小説の書き方のひとつの「省筆」って手法なんですよ。長い話を、誰かの思い出話として、まとめてしまう方法。今でも通用する文学理論。それを、ホメロスは「オデュッセイア」で、みごとに使っちゃってるんです! 馬琴もホメロスも、どっちもすごいじゃないですか。

オデュセウスはナウシカの宮殿で歓待されます。たしか王女もほのかな恋心を彼に抱きます。しかし、オデュセウスは、やっぱり故郷が気になるから、王と王女に別れを告げて、故郷に向かって、そして妻子や忠犬に会って、最後の戦いにいどむわけです。

牧歌的で美しいナウシカの住む世界から、「オデュセウス」は始まって、その静かで優しい枠組みの中で、過去の血なまぐさい冒険の数々がおとぎ話のように語られる。夢のようなのどかな過去の物語風に。この雰囲気は、とてもいいと思うのよね。そして、再びオデュセウスは、その世界から現実に戻って行く。

「オデュッセイア」のどこか夢とも現実ともつかない楽しさは、この構成にもあると思います。オデュセウスの話がどこまで本当かわからない、愉快な危うさもこめて。

ただ、映画では、この枠組みを使うとややこしすぎるし、まあ必要もないから、時系列にしたがって話が進む。だから、ナウシカの設定は使われない。それでいいんだと思う。

ところで近代文学の古典でノーベル文学賞をもらったシェンキヴィッチの「クオ・ヴァディス」はネロ皇帝の時代のキリスト教徒たちを描いて、美少女リギアとローマ軍人ヴィニキウスの恋物語を主軸とした、恥ずかしいぐらいまっとうで堂々とした古典小説です。かつて開高健が夢中であこがれたという、脇役の知識人ペトロニウスがめっちゃかっこいい。

リギアはもともと異国の王女で、人質みたいな存在として、でもローマ貴族の立派な一家に大切に保護されて、養女のように大切にされている。その一家の邸宅を訪れて、リギアと初めて会ったとき、才人のペトロニウスは、すかさず、この「オデュッセイア」の冒頭の、オデュセウスのナウシカへのあいさつを引用して、あいさつする。「あわれ、女王よ、げに君は人か、女神か…」とか言って。このすぐれた有名な芸術家(そして武人でも政治家でもある)から、こんな洒落たあいさつをされて、リギアの養父母のアウルス夫妻はとても喜ぶ。

夫妻は立派な家柄の人ですけど、武人の家系だから、そういう優雅な世界にはちょっとひけめや、あこがれもある。ところで、二人がさらに喜び、ペトロニウスも仰天したのは、この異民族の娘のリギアが、アウルスの息子といっしょに勉強もしていて、それで覚えていた、ナウシカの台詞で、答えるのです。「旅人よ、安んじ給え、我、君を愚か者とも、悪しき人とも思わねば」とか何とか。そして、そのまま、小鳥のようにかけ去ってしまう。

リギアは可憐で清らかな典型的なヒロインですけど、それだけに特に個性はないし、強烈な魅力もありません。むしろ、この場面の、最初はにかんでいて、思い切っていたずらっぽく、ナウシカのせりふで返して、そのまま走り去る姿が一番印象的で素敵です。たとえば、こんな風に、「オデュセウス」は使われているのです。

もうひとつ省略された大きな場面があるんですが、それは次回にまた(笑)。

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カツジ猫