映画「オデュッセイア」感想(4)
あと、映画では省かれてる大きなエピソードと言えば、最後の戦いに勝利したあと、オデュセウスが、妻のペネロペイアを裏切って、館を占拠していた若い貴族たち(最後の戦闘で皆死んだ)の味方をしていた、侍女たちを、皆絞首刑にして殺したことです。
映画では、若い侍女が一人だけで、どうやら裏切っているみたいで、ペネロペイアが最後の戦いが始まる前に、彼女の前でぴしゃんとドアを閉めて、とじこめるかしめだすか、とにかく拒絶して遠ざけるだけで、侍女たちとの関係を示しています。それっきり彼女(たち)は登場しません。
まあ、残酷な場面だし、この映画のオデュセウスたちのイメージにはそぐわないし、これもカットして正解だったとは思うけど、オデュッセイアのいろんな場面が、ほんとに古今東西の文学にちょこちょこ引用されてる中じゃ、この場面けっこう有名なんですよ。
一番誰もが思い出すのは、夏目漱石「吾輩は猫である」の中に登場する若い理学博士の、水島寒月くんというのがいて、カエルの目玉の屈曲を再現するのに、大学でガラス玉を削ってはすり減らして失敗してるみたいな、まじめな学者の好青年です。この人が、学会発表をするから練習のために聞いてほしいとか言って、猫の飼い主の苦沙弥先生とふざけた美学者迷亭を前に、「首つりの力学」という研究の発表をする(のちに迷亭は、この研究発表をパロディにして、俗人の婦人をおちょくるのに使っている)場面は覚えている人もいるでしょう。あれがまさしく、このオデュセウスが侍女たちを広間で絞首刑にする場面の考察で、寒月くんは、女たちの首を数珠つなぎにして両側からひきしぼって締めたのか、一本のロープに個々にぶら下げて締めたのか、どっちかだけど、前者は物理的に不可能で、力学的に後者しかない、という証明をするんですよ、あの研究は。
ここで漱石が、この場面を使ってるのも面白いけど、これは最近フェミンズムの観点から書かれた、でもやけに面白い「ペネロピアド」という中編小説があって、これはオデュセウスの妻ペネロペイアの霊が死後に書いた物語なの。そして、主役といっていいほどメインになるのは、絞首刑になった侍女たちです。この話の中では、侍女たちはペネロペイアと同志で姉妹のように愛し合って、助け合って、彼女のために尽力し、それがいろんな行き違いで、殺されてしまうのです。なんかもう、読んでてすごく好きでした私。何もかもが自然で、いかにもありそうで。

まあ、そんな風にいろいろ使われてるのです、この話。
あ、そうそう、やっぱり私が好きな、ギッシングの「ヘンリ・ライクロフトの私記」の中に、オデュセウスの、樹木をそのまま使って作ったベッドの話が出てきて、この発想というか描写をギッシングは、うっとり礼賛しまくってます。私はそれで、この場面を印象に残しました。
こんなのが、他にも山ほどありそうな気がします。「オデュッセイア」って、そんな風にたくさんの人に愛されて、血肉となっていろんな文学作品の中にとけこんでいるお話なんですよー。