母と、母の母(7)
祖母のこの手紙の最初に、活水女学院の寄宿舎にいた母が六大学野球好きの弟(私の叔父)板坂元に送った小包のことが出てくる。叔父は「小島」の写真を特に喜んだとある。最初「小鳥」かと思ったが、叔父が小鳥好きだったという話は聞いていないので、これは「小島」で、早稲田大学野球部の小島利雄選手のことだろう。当時は野球選手の写真もそうそうはなかったはずだから、それは叔父は喜んだにちがいない。
また祖母は(祖父もだが)長崎の親戚の本家が法事の日を三月二十四日に設定したことに怒っている。「きいた丈けでもぞっとする私共が死線を越へた南京事件の日」なのに、と書く。これは「世界史の窓」によると、「第1次国共合作下で、国民革命軍の北伐が迫った1927年3月24日、南京で民衆暴動が起こり、アメリカ・イギリス・フランスの領事館・外国人住居・教会などが暴徒に襲われ、外国人6名が殺害されるという事件が起こった。アメリカとイギリスは報復として長江に軍艦を派遣し南京を砲撃、中国側に約2000人の死傷者が出た」事件のこと。日本軍の行った「南京大虐殺」の十年前である。いろいろ詳しい記事もあるし、本も出ている。祖父母一家はまさに、その事件で襲撃された日本人家族の中の一家だった。当時の記録では居留民会の会長として、まだ若かったはずの祖父(板坂瑠一)の名が示されているものもある。
私自身は歴史的な知識は何もない幼いころから、母にこの事件の体験はよく聞いていた。他の家族といっしょに廊下に並べられ、暴徒化した人たちに銃を向けられ撃たれたとき、多分十歳ぐらいだった母は、「それでも私はその時すぐ、誰が撃たれたのかなと左右を見回したのを覚えている。あの時以来、人生で恐いものは何もなくなった」と何度か言っていて、後に私と「風と共に去りぬ」を読んだとき、ある老婦人(フォンテ―ンのおばあさまだっけ?)がヒロインに、先住民に襲われて母がまさかりで頭を何度も割られて殺されるのを至近距離で隠れて目撃した「母の寵児だった」自分の思い出の昔話をして、「あれ以来自分は何も恐れることがなくなったが、恐れることを知らない女にはどこか不自然なところがある。恐れをなくさないよう気をつけなさい」と忠告する場面で、軽く衝撃を受けたように「私もあれ以来恐いものがなくなったけどねえ」と述懐していた。
母の妹の叔母はもっと幼かった分、この体験はトラウマになっていたようで、私や叔父とドライブしていた時、近くで花火大会があって、大きな爆発音がしていたのを、ひどくいやがっていた。そういう音が苦手だったみたいだった。
当時の記録では婦女はレイプされたともあるが、私の一家にはそういうことはなかったようだ。とにかく何とか皆で逃げる途中、窓から見下ろすと顔見知りだった日本の偉い人が眼下の防火用水か何かの上にあおむけに倒れていて、やはりまだ子どもだった伯父(手紙の中の「兄さん」)が、窓から必死で名前を呼んだそうだ。後で聞いたのでは、その声を聞いて意識が戻って、その人は助かったらしい。そういうことも母から聞いた。
祖父がその後、居留民の人たちをまとめて帰国するまでの経緯を記した文書は、ひとかたまりあったのを私は保管の自信がなくて親戚に送ったので、今は手元にない。祖父が南京で大きな病院を経営していた時をしのぶものもまったくないが、下の写真の石膏像はもしかしたら、その病院に置いてあったものかもしれない。祖父がいやに若いから。でも、帰国のごたごたの中で、こんなもの、荷物に入れられたんだろうか。そこは謎なんだけど。
それでも母は、死ぬまでずっと中国の風土と中国人を愛していた。老人ホームでニュースなどで中国の悪口を聞くと、いつも弁護して「いい国だ、いい人たちだ」と言っていたという。「地平線の見えない風景はいまひとつ好きになれない」とも言っていて、雄大な大陸の風景をいつも故郷の一つのように語っていた。それはとりもなおさず、「きいた丈けでもぞっとする」体験を、その国や国民への憎しみや恐怖には決して結びつけることのなかった祖父母たちの精神につながるものでもあったのだろう。
澪ちやん 元ちやんへの小包有がたう あんなにせき立てゝはがきを出したら直ぐ其翌朝届いたので今朝まで待ってたらよかったのにとおもひました 仲々自分でかきそふにありませんので又お母さんが代ってかきます かねてから餘り澤山いはない子ですがとても喜びました 殊に大好きな小島の写真をひどくよろこびまして私にまで ほら小島の写真が送って来たと二三度云ひつゞけてました 又春のお休みが日に日に近づきますね 最う寒さもすつかり去りましてお昼間は随分しのぎよくなりましたね 内では兄さんの入試が十七日わかるからわかつたら直ぐに知らせるとの便りがあつた切りですから何ふななったのだろうかと毎日待ってます 多分無いのでしょ もしかあるならあの人のことだから直ぐ電話か電報で通知する筈ですもの 女中は有元先生がお自分の従妹といって十八才になる人を廿日にお連れ下さいました 来たばかりで仲々馴らすのに世話ですが この岩崎あたりの人のやうに下品でなく 馴れたら屹度いゝだろうとおもつてます そんなでゆるゆるペン取る時間もありませんでこの頃は手紙もあまりかきませんでした 南生ちゃんもかわりなく過しておりますでしょね 江戸町の法事は廿四日ですって 三月二十四日 きいた丈けでもぞっとする私共が死線を越へた南京事件の日ですよ 御父さんはこうぎ申込ふかと仰言ってますよ でも私共丈けのことで江戸町初め親類一同南京事件だろうが三月廿四日だろうが何もかわりのないことですから云って見たってつまらぬ事とおもひますよ お休に成ったら法事だろうか何だろうがおかまひなしにやっぱり皆と一處に冬のお休みの時のやうに直ぐに帰って居らつしゃいね まだ風が仲々つめたいから薄着せんやうに南生子にもよく注意してやって頂だい
母より
澪子様(二月廿一日夕)
あ、もうひとつ追加。私が小さいときまでわが家には、女中さんと看護婦さんがいたのですが、祖母はこの手紙の中で新しい女中さんが、「この近くの田舎の人のように下品ではなく」とか、あっさり書いています。これは私も母からしばしば聞いたのですが、わが家のあった宇佐の田舎は何ですか江戸時代は飛び地とかで直接の支配者が地元におらず、もともとタフで元気な大分県人の気質がさらに強まっていたようです。もともとの板坂家の地元だった長崎の文化と、それは相当差があったようで、一家は宇佐に住みついたころ、「女中さんが障子やふすまを開けるのに、立ったままでひざをつかないことに仰天した」「長崎ではどんな時でも『~しなる』『~言いなる』と言うように、敬語がしっかりしているのに、宇佐にはそもそも敬語がなく、女中さんが『奥さん(奥さま、ではなく)、こりゃ、どげすんのんかえ~』と大声で尋ねたのを聞いたときは、皆、腰を抜かした」「子どもの運動会で、長崎では保護者が参加して下さいといくらアナウンスしても、恥ずかしがって親はなかなか出ていかなかったのに、ここでは、鉛筆やノートの景品がほしいと、我勝ちに親が参加し、おばさんたちがなりふりかまわず着物のすそをけたてて、腰巻き全開で全力疾走するから、見ていて目が回った」などと、よく聞かされました。文化的で上品な長崎の文化との落差に、すごく野蛮な土地に来たという印象を一家は抱いていたようです。
でも、祖父母も母も叔母も、そんな周囲の人たちに大切にされて愛されていましたし、母も後には私によく、「高校野球でもそうだけど、大分の人はどこに行っても上がらないし実力発揮するし、そこはいいよね」と評価していましたから、こちらの文化も、まんざらでもなかったようですけどね。