江戸生艶気蒲焼
あ。昨日ひとつ書き忘れましたが、大河「べらぼう」で、蔦重が「これなら彼女も笑ってくれるかもしれない」と注目する、京伝が持って来た手ぬぐいのデザイン、京伝作で大ヒットして黄表紙の代表作になっている「江戸生艶気蒲焼」の主人公の有名な絵ですよね。
ということは絶望の中で精神的危機にある花魁の心を救おうと、蔦重がしかける黄表紙の新作は、この名作なのでしょうか。これの大ヒットもあって、戯作者の代表みたいになった京伝は、定信の寛政の改革で狙い撃ちされて、手鎖その他の処罰を受けることになるんですが。うまくつないで、転がして行きますね、事実と虚構を。
少し前に、朝ドラ「あんぱん」の東海林編集長津田健次郎が「あさイチ」に出ていた。人気がある声優&俳優さんだから、これまでのいろんな出演作も話題になっていた。
その中でアニメ「チ」の異端審問官ノヴァクのことも話題になっていた。私はこのアニメをちゃんと見ているわけではないが、ときどき見かけると、その映像や演出や脚本や、要するにすべてに魅入られて、夢中でその回の最後まで見入ってしまう。教会をはじめとする強固で残酷な統治体制のもとで、投獄、拷問、死刑など苛酷な弾圧を覚悟で、禁じられた地動説を細々と決然と、さまざまなかたちで守り抜く人々の姿が、息苦しいほどのリアルさで画面から迫って来る。
学生にもファンは多いようだし、ずいぶん人気もあるようなのだが、これだけの学問への政治や権力の介入が恐ろしい結果を招くことを告げつづけるアニメがそれなりに話題になり広がっていながら、それとまったく同じ未来を開く道へまっすぐにつながる、学術会議への日本政府の介入と、それに反対する学者たちの戦いに、世間がほとんど関心を示さなかったことが、私には怒りや恐怖より、むしろ不思議だ。まったく同じこの図式に、あのアニメを幾分でも感情移入して見た人たちが、どうして、まるで、と言いたいぐらい反応を示さず危機感も感じなかったのだろう。
当の研究者や学者でさえも私の知る限り、強く反応し明確に抗議した人はそんなにいなかったぐらいだから(だからひそかに私は学問も研究も「チ」のような世界の状況になっても自業自得だと思って冷たい気持ちでいるけれど)、他の世界の人々に文句や不満を言ってる場合じゃないとは思う。それでも「チ」のアニメの描く世界と、学術会議関連の問題を結びつけないでいられるファンの心境が私はどうにもつかめない。
古典文学の演習をしていると、学生の発表でよくあることだが、古文の文学の現代語訳をあちこちで、まちがえているのはいいとして、その全体語訳の前に、文中の各語句を調べて解釈しているのを見ると、けっこうちゃんと調べて、それぞれの語句の正しい意味をつかんでいるのである。なのに、全体の文章の訳に、それがまるっきり使われても生かされてもいない。全体の理解と正確な訳のために、それぞれの語句の意味を調べるわけなのに、これでは何のことかわからない。「語釈」と「現代語訳」が完全に乖離して、何の役にもたっていない。
前に「敷衍」の書き込みでもふれたことだが、あることについて、きちんと学び理解していても、それがそのままそっくりあてはまる類似や共通の状況や問題に、それをまったく応用できないし適用できない。あることがらと、それが別の枠組みや問題の中で登場した時に、同じものだということが、まったくつかめないし、思い至らない。不思議で不思議でしょうがない。「これとこれって同じじゃないか」「これがこうなら、あれもそうなのではないか」といった、思考の水平移動や垂直移動ができないんだろうかと思う。
私は今回の参院選で、しょうもない候補のしょうもない演説を聞きかじって、適当に投票した人が、そんなに悪いとは思っていません。地域や職場やその他の団体に縛られて、皆で言われるままに投票していたことが多かった昔の選挙と比べて、そんなにひどいとも思わない。自分で情報を集めて判断し決定するのは、そこそこ大変なことですから、そこはこれから一人ひとりががんばって行くしかないと思っています。それは私だって同じことです。
ただ、ひとつひとつの事柄や知識や感傷や印象の一つ一つを、ばらばらにしないで、大きな全体像や世界観を作り上げていくためのピースとして、使って行くことをめざしてほしいと思います。矛盾しても、まとまらなくても、難しくても、そこは必要なことだし、結局はそれの方が無駄もないと思うのです。
今朝は寝坊して、はっと気づいてスマホをつかんで表庭にかけつけたら、おお!いきなりたくさんの朝顔が満開になっていました。浮かれてたくさん撮ってしまった。何だか音楽や踊りを見ているようで、楽しかったけど、明日にはしおれてしまうのよねえ。
こんなにささやかなものが、こんなにゴージャスに見えるのって、何なんでしょう。珍しくもない花なのに(笑)。




