火花のように
お鏡餅を片づけた。昔、田舎で使っていた傷だらけで汚れた巨大な三宝を、またていねいに押し入れにしまう。通信販売で買った古臭いエビも。来年もまた会えるといいな。
餅もあらかた食べ上げた。たくさんある、陶器のきれいな鏡餅も一ヶ所に集めて、今日にでも箱に入れる。昔、山ほどへやのある田舎の家のあちこちに飾るために買ったのだけど、当然、今では多すぎる。誰かにさし上げたいのだけど、なかなか思いきれない。
何を隠そうまだクリスマスの飾りも完全に片づけてはいないのだが、まあさしあたり次のイベントはひな祭りだなと思いつつ、なくなりかけてた米と肉と魚を買いにスーパーに行ったら、入口に節分の豆を売ってて、わ、そうか、節分があったと思い出す。鬼さんたちをそろそろ飾らなきゃならないんだった。私は豆が好きなので、思わず二袋買ってしまう。
上の家を片づけていて、集中講義用の江戸文学史のテキストの残りを集めてみた。これは、あちこちミスプリもあるし、そろそろ新版を作らなくてはならないけど、また物入りだとびびっていたが、あと一回分ぐらいの数はありそうだ。これでひとつ、懸案事項が片づいた。今日は前期の授業用のテキストをそろえよう。
自分の著作はうれしかったっり大切だったりして、それなりの量を保存していたのだが、思えば私が死んだあとは、こんなの大半はごみになる。それよりは授業のテキストで使いまくってなくした方がいいと思って、本棚をにらんで考えた。平家物語や江戸紀行や抜き刷り類で、あと数回は、いやその倍はやれそうだ。でも肝心の私の身体と声と頭がもつのかな。それまで雇ってもらえるのかな。
これに限らず最近の片づけが進まないのは、自分の死の直前の状態をいろいろ予測して対策しながらになることだ。目が見えなくなるとかボケるとかいう可能性はまあもうちょっとおいとくとして、猫がいなくなる、車を手放す、歩けなくなる、寝たきりに近くなるなどの最後の日々に、読みたくなる本、味わいたい娯楽って何だろう。ネットとパソコンはいつまで使えるかな、ブログはいつまで続けるかな、大型テレビはやっぱりいるかな、DVDとか見るためだけでも。ラジオと音楽はどうだろう。友人知人とのおしゃべりったって、どのくらい生き残っているものやら。などなど、離れ小島に漂流したときのような気分で、必要なものを選んで行こうとしたりしてしまう。
庭に出られる間は、エクササイズをかねて土いじりはしたい。予測もついていたのだが、これだけ長いこと、荒れ果てた庭ばかりながめていると、だんだんそれにも飽きて来て、思わず、目が覚めるような美しい庭を作ってみようかと、とんでもないことを思いはじめたりする。身体や時間のことを考えても、そういうわけには行かないから、水まきの時などにちらっと頭に浮かぶ、あ、この木を切りたい、あ、ここの草を刈りたい、みたいに火花のような考えを、それだけでも、ちまちま実行して行くことを、さしあたり心がけてみようかと今は思いはじめている。
年末のテレビ番組で、芸能人の格付けチェックみたいなアホなバラエティをながめていた。ワインや料理や音楽やその他で、一流のものと三流以下のものの見分けがつかなかったタレントたちを露骨に差別して、最低の成績の者は撮す価値がないと画面から消してしまう。アホらしすぎて面白く(ミシュラン級の一流シェフの最高の肉料理と、カンガルーの煮込みをまちがえたりする料理番組の司会者がいたりして。笑)つい見続けてしまったが、画面から消されるタレントたちを見てると、とっさにネタニヤフとプーチンとトランプをこうやってぱっと消せたら、どうよかろうかと夢見てしまった。ロスアンジェルスの大火事のニュースはもちろんいたましいし心配だし、その猛火のさまを「原爆投下後のようだ」と形容したアメリカのジャーナリストの発言も、ある意味ありがたいような気もするが、原爆もだが、あんたらの国が放置してるイスラエルのガザ爆撃のことも思い出さんかいという気にもなってしまった。
フジテレビの人身御供問題の報道も、聞けば聞くほど腹立たしい。松本、中居といった人たちもアホにはちがいないけれど、彼らをそれだけ変てこにしたテレビ局の体制の方が、より問題がある気がする。何なんだよねもうまったく。
寝る前につまみぐいする軽い文庫本で「三つ編み」というのを読んで面白かったけど、フランス人の作者の女性があとがきで、日本でこの題材を書くならどういうことをとりあげるかという質問に「会社で女性がお茶を出す習慣」と答えていたのが印象的だった。そういうとこやぞもうまったく。この本の詳しい感想はまた明日にでも。朝ご飯食べよ。