草も生えない
朝ドラ「あんぱん」の舞台装置と言うか撮影と言うか、どういう担当者の功績なのかは知らないけど、そこらの村でも町並みでも空き地でも店先でも、どの場面もが、一幅の絵のようにきれいに作られる。しかも決して悪目立ちしないから、見ていてほとんど気づかない。 今朝か昨日か忘れたが、喬がプチ家出の妻ののぶちゃんを訪ねて行く話で、のぶが身を寄せている妹の蘭子のアパートに行く場面があった。何の変哲もない普通のありふれた二階建てのアパートの下から、二階の一部屋のドアを開けて蘭子が出てくる。のぶは外出していていないのよと喬に告げる。
まさにどうってことない場面だ。なのに、アパートを下から斜めに見上げる角度、階段のそばに生えている、いかにもの、どこにでもありそうな木や、あたりの貧弱な茂み、などなど、すべてがものすごく整ってきれいに見えた。パリの街角、とはちがうんだけど、何だかそれと共通する、最高の配置。特に演劇的というのでもないのに、場面も人も全体が、物語を感じさせる。
最初のころに、喬の実母が幼い兄弟を置いて、日傘をさしてあぜ道を遠ざかって行く場面で、強烈にその名画のような幻想的な映像美を感じたけど、今回のはさらに何でもない風景のなかに、同様の名画のようなたたずまいを感じた。それは考えて見れば、すべての場面に共通しているのだけど、今日のは特にすごかった。…なんて夢中になってるのは私だけかな。
前回の朝ドラが、別に特に悪いのじゃなく普通なのだが、糸島の田舎も港も大阪の町も、全部、ただこんなものでしょうみたいな表現で、心を動かされたり目を奪われたりすることがまったくなかった(いやまあ、それが普通なんですけど)。それに比べると「あんぱん」の映像は、喬たちが釣りをする川でも、シーソーのある空き地でも、すべてがどこか「絵画」になっている。
中身で言うと、前回や今回の「何者にもなれなかった」という、のぶの嘆きは、もちろん男性にもあるだろうが、女性で同様のことを感じている人はものすごく多い気がする。のぶは「子どもがない」こともそこにあげているし、それもわかりやすいが、私の漠然とした印象では、子どもがいないとか結婚しなかったとか離婚したとか、そういう何らかの世間から傷ものとか負け組とか言われそうな人はいっそ覚悟が決まって開き直って平気な一方、ちゃんと家族を持って子どもも育てて、特に非の打ち所ない申し分ない立場にいて、それなりの評価もされている女性の中に、そういう悩みはより深く沈んでいそうな気もする。
さて、これが、昨日お話しした函南町の勉強会の資料です。議場で公務時間内に行われていたと思う」と町長が述べる、その資料に書いてあること。
「議員の所属党派や会派によって、対応や答弁内容を『忖度』するのは当たり前」
「特に、保守系会派『清風会』『自民函南』の議員に対しては、本書に記載された内容に拘(かかわ)らず、特段のご配慮をお願いします」
「逆に、共産党などの当初予算に反対している議員への対応や答弁は、粗雑で構わない」
(以上が25年度の資料。メディアで紹介されてるのは、最後のひとつだけのようですが、ごらんのように、他にもざくざく。)
「特定の議員(共産党など)の一般質問に対して、再質問の時間を減らすために意図的に解答を長くする嫌がらせは、大いにやりましょう」
「(個人的な意見とした上で)当初予算に反対している議員から、事業執行についてとやかく言われる筋合いはない!」
(これは23年度の資料の注釈)
何から何まであほらしすぎて、SNS風に言うと、草も生えない。
まあそれだけ共産党の議員の質問が鋭くて有能で当を得ているということだろうから、共産党にとっては名誉なことですが、そもそも、提出する原案や予算にいちゃもんや難癖をつけてくれるというのは、それだけ欠点を指摘して修正すべき点を教えてくれるということで、感謝しなくちゃいけないんですけどねー。だけど、株主総会でも町内会でもどこでも、「意見が出ないで、原案がそのまま通る」のが成功だって感覚、ものすごく世間に蔓延してますからね。まちがいを指摘される、修正するってことは、決して悪いことではないのに。
参考までに私が以前に書いた論文というかエッセイを紹介しておきます。冒頭の部分だけでいいので、お読み下さい。優秀な後輩の研究者から「これだから板坂さんの論文は信用できる」とか、ほめてもらった文章です(笑)。あ、いっそ短いから、その部分だけコピーしときます。
授業や研究会で、学生や院生にしばしば言うことだが、私は厳しい先生や先輩を前にしたり、専門家の鋭い批判にさらされる大きな学会で壇上に立ったりして研究発表を行なうのは、まったくと言っていいほど恐くないし緊張もしない。それは「まちがっていたら絶対に見つけられて、訂正される」とわかっているからで、その結果私が葬り去られても真実が葬り去られる可能性は低いと思えば、大変安心していられる。
逆にものすごく怖いし緊張するのは、まったくの素人や初心者の方が相手で、万一私が嘘を教えてもまったく気づくことはない人たちを前にしてしゃべる時だ。「今日はとても面白い話を聞いたのよ。あなたご存じ?」と帰宅するがいなや友人知人に電話をかけて、そのまちがいを拡散するかもしれない奥さま、私が黒板に「続猿蓑」をまちがって「続炭俵」と書いていても、自分の卒論が俳諧なのに、訂正もせず「先生は何かお考えがおありなのだろう」と黙っているような学生に対しては、私がたれながす嘘もまちがいも歯止めがきかない。それが何より恐ろしい。
近世紀行という、あまり誰もやっていない分野の研究をしていると、それに似たことがよくあって、作家はともかく作品については私が何を語っても、ほとんどの人はその作品を読んではおらず、訂正をしていただける機会は少ないから、その分大変責任が重い。
これについてはまだ書きたいことがいろいろあるのですけど、長くなるから、また明日にでも。
