近世紀行文紹介「江戸の紀行文」を訂正する

1 中途半端な訂正

授業や研究会で、学生や院生にしばしば言うことだが、私は厳しい先生や先輩を前にしたり、専門家の鋭い批判にさらされる大きな学会で壇上に立ったりして研究発表を行なうのは、まったくと言っていいほど恐くないし緊張もしない。それは「まちがっていたら絶対に見つけられて、訂正される」とわかっているからで、その結果私が葬り去られても真実が葬り去られる可能性は低いと思えば、大変安心していられる。
逆にものすごく怖いし緊張するのは、まったくの素人や初心者の方が相手で、万一私が嘘を教えてもまったく気づくことはない人たちを前にしてしゃべる時だ。「今日はとても面白い話を聞いたのよ。あなたご存じ?」と帰宅するがいなや友人知人に電話をかけて、そのまちがいを拡散するかもしれない奥さま、私が黒板に「続猿蓑」をまちがって「続炭俵」と書いていても、自分の卒論が俳諧なのに、訂正もせず「先生は何かお考えがおありなのだろう」と黙っているような学生に対しては、私がたれながす嘘もまちがいも歯止めがきかない。それが何より恐ろしい。
近世紀行という、あまり誰もやっていない分野の研究をしていると、それに似たことがよくあって、作家はともかく作品については私が何を語っても、ほとんどの人はその作品を読んではおらず、訂正をしていただける機会は少ないから、その分大変責任が重い。
数年前に「江戸の紀行文」という中公新書を出した。それなりに、このテーマについて、これまで調べて来たことの全部をまとめたつもりでいたので、これ以後は他の方がこの本で私の言ったことの誤りを訂正して下さればいい、私は当分もう言うことはないとささやかな満足をしていた。ところが授業の教科書に使ったりしている内に何となくひっかかる部分が出て来て、どうしてもここは補足か訂正かしておかなくてはならないということが、それもかなり重要な点で、早くも生まれて来てしまった。常々、人文系の学問はそう急を要する解答が必要でない分、いったん発表したら何十年か何百年かは訂正しなくていいものを書く覚悟でいるべきだと、それもいろんなところで言って来た身としてはまったく恥さらしだが、しかたがない。
しかも、では完璧な訂正ができるかというと、そうでもないのがまた申し訳なくて、大変中途半端な修正になるのがまた困るのだが、放置しておくわけにも行かないので、せめてこのようなエッセイで指摘しておくことにする。

2 否定された時期

二〇〇三年ぺりかん社「江戸文学」28の特集「近世紀行文」の「はじめに」という全体の序文で、私は次のように書いた。

近世紀行が注目されはじめている。(略)従来は文学史の項目としてさえ立てられなかった状況に明らかに変化が生じつつある。
『近世紀行集成』(葦書房)の刊行の際にいくつかの新聞社からインタビューを受けた。共通して質問されたのは「なぜ、今までは注目されなかったのですか」だった。「近世紀行のどこが面白いか」ではなくて「なぜ、これまでは面白くないと思われていたのか」という問いに答えなければならない段階になっているのだ、とあらためて痛感させられた。

この一文に引き続き、私はその答えを述べている。要約すると、それは「紀行文学の多様な形態があらゆる近世文学のあらゆる分野に食いこんでいるために、かえって全体像を把握することが困難になったのではないか」ということだった。それは充分な答えではないと思っていたが、当時はそれしか言えなかった。
更にそれからほぼ十年後に前述の中公新書『江戸の紀行文』の第一章「『おくのほそ道』は名作か?」では、より明確な理由として、松尾芭蕉の「おくのほそ道」はすぐれた作品ではあるのだが、江戸紀行全体の中ではむしろ異色作であり、「この作品が名作と高く評価されるのとセットになって、江戸時代の他の紀行がすべて否定されてしまっている」ことを指摘した。
ただし、ではそのように、「おくのほそ道」が評価されるのと「セットになって、江戸時代の他の紀行がすべて否定され」たのは、いつごろからなのかということを、この時点では私は判断できなかった。井上敏幸氏の御教示によれば、江戸時代からすでに「おくのほそ道」の評価は高かったとのことである。そして江戸時代には他の紀行は特に否定されてはいないのだから、私が感じているように「おくのほそ道」の評価とセットで他の紀行が否定されたとすれば、近代以降でなければならない。だが、私が読んだ数少ない明治から昭和初期までの芭蕉の研究書の中にも、特に同時代の他の紀行を貶しめるものはなく、俳文学や近代文学の研究者の何人かにうかがってみても、あまりはっきりしたことはわからず、結局その間の事情をつかむことはできなかった。

3 二つの立場

しかし、ともかくたしかなことは、私が近世紀行を調査しはじめた四十年ほど前の時代には、近世紀行に関する論文は皆無と言っていいほど少なく、専門に研究されている方もほとんどいなかったし、全貌の片鱗もつかめないまま、「文学として見るべきものはない」という扱いをされていたことである。
それから更に二十年ほどたって、国文学解釈と鑑賞1990年3月号が「近世文学と旅」という特集を組んだ。その中の「近世紀行文学の再評価」で渡辺憲司氏が「明治以降の近世紀行文学研究の歴史には二つの大きな潮流がある」として、「それは紀行文の持つ、(A)主情的方法と(B)主知的な方法の二面である。主情的方法とは、中古、中世以来の伝統的な紀行文創作の様式を踏襲し、主に歌枕によって古典化された名所・旧蹟を訪れ、和歌・俳諧・漢詩の抒情表現を軸として紀行文を組み立てたものである。対して主知的方法とは、街道整備など、近世より始った新しい時代状況の中で、何等かの具体的目的意識を持って旅をし、記録性を重んじ、叙事的表現を主とし、俗文体をもって記されたものである」と、的確にまとめられている。
もちろん、個々の作品においてこの二要素が混在することは渡辺氏も認めるが、それにしても大きくこの二つの流れがあって、それぞれに評価する研究者がいるとしている。そして(A)の代表として「おくのほそ道」、(B)の代表として貝原益軒や橘南谿の紀行を例にあげた上で、石田吉貞、鳴神克己、井本農一氏ら「(A)の立場を紀行文学の本質とし、近世においては紀行文学と評価すべきものは少ないとするのがその共通認識である」人々の説を紹介した後、「あまり相異のない(A)の立場の意見を長く引用し過ぎたかもしれない。しかしこの立場は長く日本文学研究史の常識化された意見であったことをつけ加えておきたい」とされているのを見ると、私が紀行の研究を始めた頃に抱いた印象は、それほどまちがってはいなかったと言えるだろう。
渡辺氏は、これにひきつづき、(B)のような紀行を評価する立場として、中村幸彦「近世圏外文学談」と鈴木棠三『近世紀行文芸ノート』、それに私の論文をあげておられる。お二人のような先生方と並べられただけで、私は嬉しさに浮足立ち、「板坂耀子氏の極めて精力的な多くの論考」は、「ほぼ二十年以前まで圧倒的に優勢であった(A)の立場をこの二十年間で逆転せしめたといっても過言ではない」とまで書かれたのでますます有頂天になって、うっとりとその文章に読みふけっていた。渡辺氏の近世紀行に関する全体の見解は、部分的にはいろいろなちがいもあったにせよ、私のそれまで感じていた実感ともおおむね一致していたから、氏のこのような「明治以降の近世紀行文研究の歴史」のまとめ方を私は心から受け入れて全く疑いを抱かなかったし、自分もそのように主張してきた。

4 問題の部分

だが中公新書『江戸の紀行文』の第一章で、いつものように、従来江戸時代の紀行は低い評価しかあたえられていなかったということを、渡辺氏のあげた人々を紹介しながら説明していて、何か非常に落ち着かない、居心地の悪い気分をかすかに感じつづけた。その正体をつかめないまま、私はそれらの人々の中でも最も明瞭な例として鳴神克己『日本紀行文藝史』の、芭蕉を長く引用して高く評価し、それ以後の近世後期は紀行文学の「崩潰」時代と断じた部分を引用し、それに続けてこう書いた。

『日本紀行文藝史』のこの部分を読むと、近世後期の紀行を黙殺し、否定するのに芭蕉の作品は大きな、というより決定的な役割をはたしていることがわかる。芭蕉以外の江戸時代の紀行に対するこのような評価は、柳田国男が帝国文庫『紀行文集』で貝原益軒を認めたのを除けば近年にいたるまでおおむね学界の常識だったことは、以下の記述からでも明らかだろう。(波線後補)

そして「以下の記述」にあたるものとして、鈴木、石田、井本、渡辺氏らの文章を引用した。
訂正したいと思うのはこの部分である。今読み返すと、たしかにまちがっているわけではないけれど、重大な要素が抜けていると言わざるを得ない。しかも、冒頭に述べたように、いかに紀行を専門に研究している人が少なくて、私の話を信ずるしかないにしても、これはそういう問題ではなく、私の提示した資料と説明を読んだだけでも、私が見落としたもの、まちがっている点に気づく人がいていいたぐいのまちがいである。恥ずかしいと言えば恥ずかしいが、心休まると言えばそういう面もある。
どの程度気づく人がいるだろうかと思って、授業で学生に「この部分のおかしな点を指摘したら、Aプラスの最高点をあげる」と、あまり感心できない誘惑をして、じっくり検討させてみた。わかった学生はいなかったが、いい線まで迫った者はいたので、気がつく読者はいるかもしれない。
もったいぶるのはやめて、とっとと結論を書くとしよう。先にあげた私の文章は、本来は最低でも次のように書くべきであった。

柳田国男が帝国文庫「紀行全集」で、貝原益軒を高く評価しているのでも明らかなように、近代に入っても明治から昭和初期にかけて、芭蕉以外の江戸時代の紀行は決して低く評価されていたわけではなかった。鳴神のこの本がどれだけ決定的な影響を与えたのか、私はまだ検証できていない。また鳴神以外に同様の評価を行なった同時代の研究者や研究書もまだ見つけきれていない。しかし少なくとも、鳴神のこの書以降、芭蕉以外の近世紀行が注目されることはなくなったように見える。
鳴神のこの書は非常に優れた内容で「日本紀行文藝史」の名に恥じない。それがこれほどまでに芭蕉以外の近世紀行、特に後期の作品を否定し去ったことは、皮肉にも鳴神がこれだけ愛した日本紀行文学というジャンルの研究を、江戸時代に関する限り、断絶させ抹殺してしまったのではないかとさえ見えるのである。その結果、昭和40年代においては、近世紀行の評価は以下に紹介するように、惨憺たるものになっていた。

5 近代初期の文学全集

これだけではわかりにくいだろうから、もう少し詳しく時系列に沿って述べる。
明治二六(一八九三)~三六年に出版された博文館帝国文庫は正編と続編で百冊あって、「真書太閤記」「北条五代記」等の軍記物が数冊ある他は、すべて西鶴、近松、馬琴、黄表紙、人情本といった江戸時代の文学で構成されている。当時としてはやや大衆的な読み物であったのか、どの図書館でも本の傷みは激しく、また欠落しているものが多い。愛読される一方で、さほど尊重はされていなかったのがわかる。
この中に「紀行文集」「続紀行文集」「続々紀行文集」の三冊がある。たとえば馬琴や一九や西鶴でも二冊程度であることを思えば、この全集の中で紀行というジャンルは決して軽視されてはいない。馬琴の八犬伝、一九の膝栗毛は別に数冊を設けているが、紀行もまた「漂流記」が別になっている。
さらに、その三冊の内容だが、「続」と「続々」には他のジャンルとやや異なって「海道記」「東関紀行」など中世以前の作品も収録される。しかし、その大半は、渡辺氏の分類に従えば(A)も(B)も同様に収録されており、(B)の文学としての価値は充分に、ごく自然に認められていたとしか思えない。
そして、正編である「紀行文集」に収められているのは、橘南谿「東西遊記」、大淀三千風「日本行脚文集」、菱屋平七「筑紫紀行」、菊岡沾涼「諸国里人談」、「おくのほそ道」である。「おくのほそ道」以外の作品の中で、最も紀行の体裁を整えているのは「筑紫紀行」であるが、他の三つはどれもそれぞれに正統な伝統的紀行とは異なり、特に「里人談」などは紀行として扱ってよいのかと思うほどで、「おくのほそ道」とはちがった意味で、紀行としては異色作と言ってよい。
近代初期の人々が、「紀行」と言う時にまず思い浮かべるのは、こういう作品群であったとすれば、その許容範囲は極めて広い。そして冒頭に置かれた「東西遊記」を初め、俗文で書かれた主知的な作品が代表的な名作として選ばれているのだ。
その後、明治四四(一九一一)年から大正五(一九一六)年にかけて有朋堂文庫一二〇冊(別に索引が一冊)、昭和五(一九三〇)年に昭和版の帝国文庫三〇冊が刊行される。前者は平安時代以降の古典文学を網羅しており、後者は江戸時代の散文学を収録する。前者には「日記紀行集」があり、後者には「紀行文集」がある。
「日記紀行集」にはやはり「海道記」「東関紀行」などの中世以前の紀行や、芭蕉の「野ざらし紀行」と「おくのほそ道」も収録されるが、井上通女らの女流紀行、賀茂真淵、本居宣長ら国学者の紀行なども多数入っている。やや国学者の和文紀行を主としている傾向はあるが、馬琴の「羇旅漫録」もあり、またこの全集では「東西遊記」は別の一冊としてとりあげられているのを見れば、江戸時代の俗文紀行は軽視も無視もされてはいない。
昭和版「帝国文庫」の場合、三〇冊という限られた冊数の中で一冊があてられるほど、近世紀行は重要な存在と認められていた。この「紀行文集」の編者は柳田国男で、これに「おくのほそ道」は入っていない。代りに貝原益軒の作品が多数収録され、その他の作品も長久保赤水「長崎行役日記」、小笠原長保「甲申旅日記」、古川古松軒「東西遊雑記」、菱屋平七「筑紫紀行」と、(B)の典型のような作品が並ぶ。柳田は序文で、特に貝原益軒を高く評価しており、これは私が「江戸の紀行文」で書いたような唯一の例外などではなく、おそらくは明治以降の一般的な近世紀行観の流れをくむものであったろう。

6 見えていた真実

渡辺憲司氏は先の「近世紀行文の再評価」の後半で、(A)(B)いずれにも属さない雅文の紀行類について述べ、中村幸彦「圏外の文学」等で近世の雅文紀行が低く評価されることについて疑問を呈している。私もそれは同感で、俗文や雅文に関わりない多様な面白さを、近世紀行は有していると考えている。
ただ、少なくともそのような見解や視点や評価は、近代初め、少なくとも昭和初期までは確かに存在していた。それは江戸時代から自然に引き継がれ、何の疑いもなく人々が受け入れていた基準だった。芭蕉の「おくのほそ道」は、あくまでその一角を占める名作にすぎず、「これに比べれば他の紀行には見るべきものはない」という観点は、どこにも発見することができない。
それを一変させたのが鳴神の『日本紀行文藝史』一冊の力なのかどうかは私にはまだわからない。ただ、まだ二十代前半にすぎない若さの坪内逍遥が発表した「小説神髄」が、江戸時代にあれだけ人気があった馬琴の小説を葬り去って、今日に至るまでその状況がさほど変わっていないことを考えると、そういうこともあっておかしくないという気もしている。
少なくとも刑事ドラマ風に言えば、近世紀行の学界における死亡推定時刻は昭和五年以降というところまでは、しぼれて来たのではないだろうか。ちなみに『日本紀行文藝史』の出版は昭和十八(一九四三)年である。著者の鳴神克己については、『日本紀行文藝史』跋文に足立巻一の次のような紹介があるが、それ以上は不明である。

先輩鳴神克己氏は昭和十年の「皇學」第三號に「紀行文學としての康永元年大神宮参詣記」を發表してゐられる。この論文の價値はすでに加藤玄智博士はじめ斯界の諸賢によつて十分明きらかにせられ、殊に博士の「坂翁大神宮参詣記」(冨山房百科文庫)の中に全文収められてゐるので、今さら喋々する必要もない。
氏がわが紀行文藝を體系づけ、そこに日本文藝の性格を見ようとする意圖は、このやうに十年以前に遡ることができる。爾来、氏の研究は石のやうに黙々として、地味堅實につづけられてきた。それがここに見事に開花したのだ。旅を愛する氏の性格が研究對象にがつきり結合し、それに烈々不屈の研究精神の炎がそそがれ、この「日本紀行文藝史」となつたのである。
しかも、氏のそれは類書も何もない無類獨自の道であつた。それだけ、豊富な價値を含有してゐる。(後略)

「類書も何もない無類獨自の道」とあるからには、これ以前にこれほど明確に「おくのほそ道」以外の作品は見るべきものがないとして、近世紀行を否定した書があって影響を与えた可能性は薄いと考えてよいのではあるまいか。
ここまでにあげた本はいずれも、私が四十年前に近世紀行の研究を始めた時、その最初から読んでいた本である。いずれも決して手に入りにくい本ではなく、大きな図書館ならまず所蔵しているものばかりだ。これらのどれかを読んでいた人なら、容易に私の見解の不十分さには気がついただろう。もしも読んでいる人があまりいなかったとしたら、少なくともここで書いた程度の答えは、いつも目の前にあったのに、それを見ていながら見逃してしまっていた私の責任は、くりかえすが軽くない。

7 追記

その後、更に気がついた点をいくつかあげておく。
藤田叙子「紀行文の時代(一)―田山花袋と柳田国男―」(「三田国文」 一九八五)は、「明治二十年代から四十年代にかけて、“紀行文の時代”ともいえるような一時期が現出する」としており、「明治時代中期を紀行文の時代と考えるならば、徳川時代も又、大いなる紀行文の時代であった。俳人、文人、歌人、行脚僧、公家―。それらの人々が旅びととして地方を跋渉し、そこでめぐりあった珍しい出来事、風習を盛んに書きとめたのである」と二つの時代に共通する主知的な紀行の流行を指摘する。
また島津俊之「田山花袋の紀行文論再考」(「空間・社会・地理思想16号」 二〇一三)は、藤田も注目した田山花袋の紀行文観を検討するにあたって、花袋が江戸紀行として注目したのが、芭蕉「おくのほそ道」と橘南谿「東西遊記」であり、花袋は無条件に当初から「おくのほそ道」を評価していたのではなく、さまざまに二作品への評価を変容させつつ「おくのほそ道」を認めて行った過程を詳述する。これを読むと、私が書型その他から明らかに紀行というより読本や奇談集の体裁を採るために、紀行として扱うことに、常にかすかな躊躇を感じていた「東西遊記」が、「おくのほそ道」とともに、この時期の江戸紀行の代表的な存在として扱われていたことも確認できる。
そして両氏の論からは、私が前に述べたように、近代初期には江戸時代の紀行も主知的な紀行も決して無視も冷遇もされてはいなかったことが伝わってくるのだ。
というわけで、近世紀行だけでも手に余るのに、この年になってずるずると近代文学に足をとられて行きそうな予感に、私はかなりげんなりしている。

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