誠実でも聡明でもないナチス
とりあえず、宿題をしあげとこっか。兵庫県知事選後のごたごたについてコメントした時、「じゃとりあえず私たちはどうしたらいいか」ということなんだけど。
言いたいことは三つあって、ひとつは「誠実と聡明とナチス」の話、ひとつは「インフルエンサーを確保しておく」こと、ひとつは「ことばを軽く扱うと危険」ということ。
どれも、あくまで私が気をつけてるってだけのことですが。
ずっと以前、国語の先生たちとの勉強会で、小中高の先生の中から、「文学作品の授業はまだいいけど、論説文の授業はやりにくい。目的がわからない」みたいな質問が出て、そのとき私はこう言いました。
「よく言われるたとえ話で、誠実でナチスの人はいたけど、その人は聡明ではなかった。聡明でナチスの人はいたけど、その人は誠実ではなかった。誠実で聡明な人はいたけど、その人はナチスではなかった。この三つがそろうことはなかった。ということが言われる」
「このナチスが共産党になったり他の何かになったり、とにかく、ある国やある時代に、人類にとって困った存在のものになって話されることもあるけど、要するに、そういう、どうしようもない悪について考えるとき、聡明さと誠実さのどちらが欠けていても、悪に染まるのは防げないということだろう」
「文学作品などの教材で感情を豊かにし、感受性を養ったら誠実にはなれるだろうが、それだけでは危険だ。冷静で論理的できちんとした判断ができるような聡明さもそなえなければ、ナチスに象徴されるような存在に抵抗や拒絶はできない」
「文学作品で感受性や優しさを磨いて、それだけで世の中に子どもたちを送り出すのは、やわらかい無防備な肌のまま、裸で敵や毒の中に投げ出すのと変わりない。それらの本質を見抜き防御することのできる鎧や武器も与えておかなければ、自分も他人も守ることはできない」
「論理的な教材で、聡明さをみがくことは、文学的な教材で、誠実さをみがくことと、同様に重要で欠かせない。二つそろってこそ、どちらの力も充分に発揮できるのだ」
その時の、その場の方々には、これで納得していただけたと思っています。
今回の知事選で、嘘八百の怪しげな物語に感動して、熱狂して、投票した人が多かったとしたら、それはそれで、悪いことばかりではないと私は思っています。どんなにお粗末な怪しげなものでも、心を動かされ、燃え上がって、行動までできるということは、多分「誠実」な人たちです。私にも、そういう面はあります。それを死ぬまで失いたくはありません。熱狂し、陶酔し、信頼し、献身する心を、いつも持ちつづけたいと思っています。
でも、そうであればあるほど、同じぐらいに磨いておかなければならないのは、疑い、確かめ、調べ、見抜く能力です。その「聡明」さが足りなかったら、誠実さも利用され悪用され、滑稽なものにしかなりません。
それがひとつめ。あとの二つはまた明日(私はシェラーザードかよ)。
庭のジンジャーがいよいよ終わったので、久しぶりに花屋さんでグロリオサと何だっけ上品な花を買いました。そしたら後者の水揚げを失敗して、首がくたっとなったので、あわてて茎を少し切ったら、ちゃんと復活して、今はしゃんと咲いています。やったぜ。