長崎の少年たち
今日はさすがに朝から雨。涼しくて曇っている。
十一時からまた、テレビで長崎の原爆忌を見た。私の一族はもともと長崎出身なので、住んだことはなくても町の名などはどことなくなつかしい。
祖父は特にゆかりのなかった大分県のJR宇佐駅前に、「気に入った」とふらりと住み着き、たまたまそれまでいたお医者さんが引っ越したあとの医院を引き継いで、地元の人たちにも大切にしてもらって、晩年まで村医者として安楽に暮らした。特に不仲とかいうことはなかったけど、長崎の親族との付き合いは、そんなに密接ではなかったから、私はそちらの人たちのことは、あまりよく知らない。それでも母の話などから、いろんな人たちの話は聞いていた。
この写真は、その医院と自宅。今は私の旧友に買ってもらって、ずっと帰っていないが、外見は多分あまり昔と変わっていない。

下の記事の中に、ほんとにちらと出て来るが、子どものときに、この家に訪れて、原爆で死んだ、かわいい二人の少年のことも母は何度か話した。前にも書いたか知らないが、二人には弟か妹か幼い赤ん坊がいて、長崎の親戚の誰かが、「◯◯(私は名前も覚えてないのだが、その少年の一人)は、赤ん坊を上からかぶさって抱くようにして死んどったばい」と教えてくれたことも母は話した。
他にも三菱重工に勤めていて重傷を負ったが助かった親戚や、その人を満員の列車の中、通路に寝かせた周囲に立って囲んで守って長崎から連れ出してくれた、若い元気な無傷の部下たちが、その後すぐに全員原爆症で死んだという話も聞いた。
そんな話が、どこの家にも限りなくあるのだろう。
長崎は坂の多い起伏に富んだ町である。祖母や母や叔母が学んだ活水短大は、アメリカの宣教師の女性が作った、美しい建物だった。その女性校長(だったと思うが)は、花は枯れるのがいやだと言ってキャンパスに植えさせず、クローバーだけをしきつめた。母や叔母は友人たちとその中で四つ葉のクローバーをさがし、そのいくつもが、彼女たちの使った古い聖書や讃美歌集の間に今もはさまって押し葉になっている。
坂の多い土地の山にさえぎられて、活水短大の建物は被害を受けずに残った。でも、キリスト教の信者や教会が多い、この町の多くはクリスチャンの多い国の落とした爆弾で焼かれたのだと、あらためて思う。米国のカトリックの人々が復元に協力した鐘が今日の式典で鳴らされているのを聞きながら。
首相のあいさつを含め、今日もまた、怒りや無念にあまり心を騒がせずにすんだ、静かな祈りの時間が持てたのはありがたかった。
夜の番組で、張本勲選手が語った被爆のときの思い出で、やさしかった姉が火傷で顔も崩れて亡くなったことを語り、どうしても行けなかったがようやく行けた広島の資料館で、無惨な死体の写真を前に「ああ、姉を思い出す」と見入っていた映像が流れた。
そのとき、彼が見ていた顔も身体もぐちゃぐちゃの死体の写真は、ちらとしか映らなかったが私には見覚えがあったと思う。幼いころに、家で購読していた「アサヒグラフ」に載っていた写真の人ではなかったろうか。子どもの私は、それらの写真に本当におびえたが、それを母に見せたら母は、どう説明したか覚えてないが、とにかくその人たちは私や母と同じような人たちで、私たちもいつでもこうなるのだということを私にわからせ伝えてくれた。それ以来、それらの写真のおぞましさや醜さを私は忘れることはなかったが、嫌悪や恐怖は感じず、知人や家族や自分自身のように思って生きてきた。
母はあの時、どんな言葉で、私にそれをわからせたのだろう。今となっては見当もつかない。
夜は仕事の合間にネットをのぞいていたら、Yahooのニュースで、祖父の郷里の長崎県大村市の出身らしい、楽天の隅田投手が平和について語っているのにも、心を動かされた。オールスターの裏話の動画で、「投げる球の球種を全部宣言して三振を取りたい」と目標を語ったら、ホークスの周東選手に「あ、言わない方がいいのかな~」と遠慮されつつ、「今でも腕の動きで投げる前から球は全部わかるよ~」とか言われて、げんなりしている食事シーンを見たとき、食べ方のきれいな人だと印象に残っていた。下の録画の38分あたりだと思うので、お暇な方は探して下さい(笑)。
高校野球の方は何しろ暑すぎる球場での試合を楽しめなくて、あまり見ていない。広陵高校の問題については、いろいろわからないことも多すぎて何とも言えないが、単なる暴力事件でなくて、性被害めいたものが加わっているのが、いらだたしく腹立たしい。これについてはまた書くことにする(ひっぱって、ごめん)。
さしあたりひとつだけ、ささいなことを言っておく。初戦の試合終了後、対戦相手の高校の選手数名が握手を拒否したことが話題になっていたようだが、私の知る限り、そもそも試合後の両校の握手なんて、昔はまったくやってなかったぞ。年のせいで時間の感覚がよくわからないが、たかだか二十年ぐらい前じゃないの、あんなことはじまったのは。どこかの学校の選手が自発的に始めて広がって、今じゃ普通になってるけど、最初のころは違和感ありありで、批判や疑問を口にしたり書いたりした人たちもそこそこいたんじゃなかったっけか。わざとらしいとか、気味悪いとか、偽善的だとか言って。
それがもう長年の伝統で常識であるかのように、野球界の大御所までが「握手拒否は非常識」とか言ってるから目が回る。ほんとに、始まったのそんなに昔じゃないのだから、そこそこ若い人たちだって知らないわけじゃないはずなのに。どいつもこいつも記憶喪失になったの、それとも私だけが幻の記憶にとらわれてんの。ささやかながら、これだって立派な歴史の改変だか改ざんだかじゃあるまいか。参政党を笑えんよ。