映画「雨あがる」感想集映画「雨あがる」感想-5

思い出したことから書いておきます。
あの殿さま、最初に登場したとき、馬が動き回ってるので、もしか乗馬が下手なのかしらんと思ったけど、二度めに見たときは、あー、これでないと、あのイラチの殿さまの性格は出んわなーと考え直し、その後ネットでいろいろ見てたら、演じた三船史郎は大学の乗馬部で、あれはうまい人しかやれない演技らしい(笑)、馬がひっきりなしに動くのって。そう言われたらそうだよなー。

DVDの制作日誌を見てたら、監督はラストシーンの海の色がちょっと残念だったらしく、たしかに、もっと真っ青できれいだったら、ぐんと迫力あったろうにとは思うけど、まあ、そのくらいは目をつぶろう。夫婦二人の表情は申し分なしなので、こっちも、いい景色なんだろうなと自分に言い聞かせられるもん。

ところで、原作の小説と映画の伊兵衛のちがいはいろいろあるんだけど、たとえば、最初の宿で、夜鷹の女が「あたしの飯を盗んだ」と老人に言いがかりをつける場面がある。
映画だと、夫婦は女の声を聞きながら、「あれはひどすぎるなあ」「でも皆がもっとあの方に親切にしてあげれば、またちがうでしょうに」とかひっそり言い合っていて、やがて伊兵衛が耐えられずにへやを出て行って、わって入って女をなだめる。

この行動は小説も同じなのだが、ただ小説の伊兵衛は、女が皆をののしり、泥棒呼ばわりしているのを聞きながら、「ああ、ひどい、これはもういけない」という感じで、彼自身がほとんど泣きそうになっている。そのような罵声や醜態を見聞きするのが、彼はもう耐えられない。飛び出して女をなだめるのも、その後、宿の皆を何とか元気づけようと金をかせぎに出かけるのも、彼には善意や施しなんかじゃ全然なくて、もう、そうしなきゃ自分がだめになりそうで、だから必死で人を救ってしまうのだ。

彼は人の悲惨や苦しみや醜さを見ているだけで、聞いているだけで、自分がおかしくなってしまうのだ。だから、自分が正気と健康を保つために必死になって人を救っているだけで、別に慈善というようなものではない。
それが伊兵衛という人の崇高さで滑稽さだ。原作を読んでいると、それがもう実に、ひしひし、ありあり、伝わってくる。

映画の伊兵衛には、このおかしさはない。だから、冒頭で女の言葉や行動に、やりきれない思いをしている彼の様子も、そう切実には見えなくて、品格のある立派な武士が、哀れな庶民の醜態に吐息をついて眉をひそめている程度にしか見えない。その結果、わって入って女をなだめるのも、その後、金をかせいできて宿の皆に大盤振る舞いをするのも、動機がちょっとわかりにくく、どうかすると上から目線のおせっかいな親切に見えなくもない。
だが、原作の伊兵衛は「助けてくれー、もうやめてくれー、皆幸福になってくれー」という悲鳴をあげんばかりの思いで、やみくもに人を救っているのだ。ただもう、人の醜い姿を一瞬も、自分が見ていられなくて。

寺尾聰が、そこまでやっていないから、映画の伊兵衛はちょっとわかりにくいのだが、しかし原作通りにやると、のっけから伊兵衛はもうどう見てもあきらかに変な人なので、観客は苦笑して引いてしまうだろうから、演出も演技も、これでまちがってはいないと思う。

ただ、そこをぼやかして、わかりにくくした代わりに、黒澤明の脚本は、殿さまという存在を伊兵衛に対峙させることで、ぼやけた伊兵衛のイメージを鮮明にふたたび浮かびあがらせている。
そこには、山本周五郎が「雨あがる」で描いた、伊兵衛という人物の喜劇と悲劇を、黒澤が痛切に理解し、心をゆさぶられたことも浮かび上がる。
デフォルメしたかもしれないし、自分の問題点にスライドさせたかもしれない。それでも、黒澤は、周五郎のこの短編に描かれた主人公の、自分と共通し呼応する悲しみの核をしっかりつかんでいる。

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カツジ猫