映画「雨あがる」感想集映画「雨あがる」感想-6
前にも書いたが、黒澤映画には多く、強い個性と信念と魅力と実力を持ったカリスマが登場する。そういう人の運命や生き方が、観客にとって身近で切実なものでなくなり、自分がそうなろうとか、自分がそういう人に従いたいとか感じられなくなったとき、感じさせられなくなったとき、黒澤映画の魅力は失われるだろう。
彼はそういう、恵まれた人間、すぐれた人間のあるべき姿、彼らに求められる役割をいつも模索し、提示するかに見える。「天国と地獄」の原作となったエド・マクベイン「キングの身代金」には、まったく存在しなかった、「おれは暑い貧しい町のアパートから、高台にあるあんたのお屋敷をずっと見ていた。いつの間にか、その憎悪がおれの生きがいになった」というようなことをいう、犯人の述懐で、黒澤は、恵まれて高みに住む人間が、底辺から見上げる者たちの視線という危険にさらされているという、原作には皆無の視点を映画の主軸に据えている。その高みからひきずりおろされてなお、すぐれた人間でありつづけることができるかと、映画は問いかけてくる。
「雨あがる」の伊兵衛は、エリートになり人の上に立てる才能に、ありあまるほど恵まれながら、そのことを申し訳なく思い、人の上に立つことに対して臆病である。彼は断固としてそれを拒否するのではない。普通の生活ができる程度の収入や地位は、妻のためにもほしいのだが、そのために人を押しのけたり、蹴落としたりはしたくない。その結果、彼は彼ほどの力のない人たちほどにも、収入も地位も得られない。
この悲しさ、この皮肉。黒澤は、このような存在が描き出す問題点や矛盾に、文字通り、飛びついたにちがいない。殿さまのような人物を描きながら、黒澤は彼自身の中の伊兵衛をどうすべきかという回答を模索していたのではないだろうか。
今うっかり、「妻のためにも」と書いたけれど、考えてみれば、もし妻がいなければ伊兵衛は名誉やぜいたくはおろか、仕官も生活の安定も望まず、ただだらだらと楽しくホームレスをつづけて、どこかで幸せに野たれ死にする可能性も高い。そう考えると、一見いろどりや癒しや飾りにも見えかねない、あの奥さんの存在は伊兵衛が伊兵衛であるために、ものすごく欠かすことのできないものだ。奥さん自身は、あの境遇に不満はなくても、伊兵衛は彼女を絶対に幸福にしてやりたいと思っているから、生活の安定を望まざるをえないことになる。
私は「守るべきものがあって」何ちゃらかんちゃら、という考えやフレーズが、もう文句なく、どれも大嫌いだ。守るべきものがあるということを、どれだけのアホがどれだけの殺生や悪事を働く口実にしてきたか、しかも他の方法がないかよく考えも調べもせず、と思うと、誰がどんな状況で言おうと、この言葉にはむしずが走る。
ではあるが、伊兵衛の場合、この奥さんの存在はまさに「守るべき、愛すべきものがある」という点で彼のあり方や生き方を決定づける、あえて言うならねじまげる、そのしょうもなさ、切実さ、必然性に、思わず深く納得する。脱力して笑っちゃうほど納得する。
人を不幸にすることが何よりきらいな伊兵衛が、誰よりも不幸にしたくない妻を幸福にするために、無欲でいられない、のんきでいられない、その情けなさ、哀れさがひしひしと胸にせまって、身につまされる。