映画「雨あがる」感想集映画「雨あがる」感想-8(多分これで、おしまい)
しかも彼の優しさや品格はエリートとして教育されたものではなく、彼の本質でもあるのだから、なおのこと始末が悪い。
彼のような人が幸福になり、他も幸福にするためには、あの殿さまのような人から、目をつけられ、目をかけられ、どんどんひきたてられるしかない。
おそらく今、さまざまな分野で活躍している人たちの多くは、そういうチャンスにめぐまれた人だ。私自身も今得ている境遇の中には、そういう幸運に恵まれた結果のものが数多い。
だが、いくらじっとしていて、「ぜひ、あなたが」「お願いします」と周囲や目上に言われて、当惑しながらいやいやながらつとめを果たして最上の場所までのぼりつめる、というのが理想でも、そこまでの好運に人はなかなかというより、まず絶対にめぐりあえない。
映画「プラダを着た悪魔」のヒロインも、職場での出世を望まず(それが本来の希望の職種ではないから)人を蹴落とさず、上司の要求にひたすら応えている間に、ずんずん出世してしまう。だが、その「私は望んでいないのに」と言いつつ栄光をつかんで行く、言ってみれば無意識のカマトトぶりを上司はきっちり指摘して、他人を蹴落とす覚悟がなければ、言いかえればそれをしていいと思うほど好きな仕事でなければならないという事実を、ヒロインにしっかり自覚させるのだ。
伊兵衛に必要なのは、あの「プラダを着た悪魔」の上司のような存在だろう。競いたくない、誰も傷つけずに自分と愛する者を守りたい、という彼の願いに限界があること、更に、その底にある、すぐれた能力はありながら、それによって生れる周囲からの羨望や要求は引き受けたくない、エリートだが普通でいたいという思いにも、わがままや怠惰や偽善があることを、明確に指摘してくれる人が。
少なくとも殿さまには強力な切り札が、ひとつはある(笑)。それは、「自分なんか、生まれながらにして君主で、望みもしないし競いもしないのに、一方的に超エリートにされて、日夜がまんし努力している。おまえの悩みなんか泣きごとだ」という叫びだ。これまた山本周五郎が「野分」の中で、自由な町人になろうとする庶子に向かって父の藩主が言うせりふ…士農工商のトップの存在が背負わなくてはならぬ苦しみ、という感情が。
周五郎の描く、この老藩主の述懐が、江戸時代として正しいのか、社会的人権的に正しいのか、それは私もわからない。しかし、そうであろうとなかろうと、そのことばには、たしかにひとつの真実はある。上に立つ人間が、強者が、エリートが、背負わなければならない義務と覚悟と苦脳。
そんなものなどないままに、あることさえも知らないままに権力やエリートをめざす者たちのことなんか、考えるのも汚らわしいから問題外でおいておく。
問題は、伊兵衛のような人間のとるべき態度だ。その力は十分にあるのに、英雄や聖人になることを拒否しようとする人々のとるべき態度とは何なのか。伊兵衛ほどの能力ではないにしても、もっとささやかな「人の上に立ち、あがめられる存在」であるにしても。
黒澤監督がそれを考え、問いかけようとした、「雨あがる」の脚本は、彼がそれまで描きつづけてきたテーマが、死を迎える最後まで時代に遅れず、ぴったりと併走しつづけていることの証明でもある。それを、あらためて実感し確認できるという点で、これは、とてもめでたい、うれしい映画でもあるのだ。