映画「放射能廃棄物」9-映画「放射能廃棄物」感想(新7)一応これでおしまい

◇ベルナール氏いわく…

「放射能廃棄物を処分するときに、決して忘れてはならないことばは何だと思いますか?
それは、信頼、です。
政治指導者、科学者、経営者の責任感、物理の法則。そうしたものを、あなたが信頼しなければ、どうしようもありません。より責任を負っている人間、環境や人命に影響を与える決断を下す人間。そうした人々を信頼しなければ、何もはじまらないのです。未来を築くためには、信頼が必要です」。

この発言はほとんどもうラストに近いんですが、いやーもう、ここまでずううっと、「より責任を負っている人間」、「環境や人命に影響を与える決断を下す人間」たちが何をしてきたか、また何をして来なかったかを延々見せられてきたあげくに、この発言と映像の持つ説得力はほとんどもう、破壊力に近いです(笑)。

上に立つ人、責任者を絶対に「信頼」しちゃいけない、私たちの未来と安全は、私たちの手によってしか守れない。それを、これほど陰画のように鮮やかに伝える場面はありません。
無責任きわまる言い方すると、まあちがうかもしらんけど、この映画のスタッフや監督は、このインタビューのフィルム見たとき、「やった!」と快哉を叫んだのじゃあるまいか。それほど、このベルナール氏の上品で多分悪い人でさえないのだろうけど、まるでまったく重みも葛藤もない、つるんと小ぎれいな薄っぺらさで、「おまかせ下さい、しろうとは口出ししないで」としゃあしゃあと言ってのける外見の持つ効果には、ものすごいものがありました(笑)。

これでもわからない人のために、この後につづいて、ユベール何とかという天文物理学者が、これはまた白髪の深い人生を刻んだ感じの外見と表情で「(原発の廃棄物処理において)私たちは、未来を抵当に入れている」「同じ政治体制が一世紀以上続くことさえまれで、かつての大帝国は今では田舎になっている。人類の歴史には、いくつもの大変動がある」「そんな遠い未来を管理できると考えるのは、おこがましいことですよ」と、ベルナール氏とはすべて、あまりにも対照的な重く美しい正しい発言をして映画は終わるのですが、この立派なユベール老の話が、救われはするけど、まっとうなだけに、チャップリンの「独裁者」の最後の演説と同様、かえってインパクトの点では、ベルナール氏のケーハク発言に負けてますね(笑)、まあいいんだけど。

◇ただ、映画の訴えようとしたこととは別に、あるいはそれ以上に、私としては、上に立つ人、責任を負う人、決断を下す人の内面が、こんなもんかと思い知らされ、やっぱりなとうなずかされ、その寒々しさがもう、ひたすら強烈でした。
葛藤はおろか、憎しみや欲望さえない。あくまで小ぎれいで品がいい。でも弱い者や醜い者や愚かな者、虐げられ見捨てられた者に対する愛情や思いやりが、そこにはかけらも存在しない。涼しい顔という冷たさ、誇りとは無縁な薄っぺらな自信、快さの中に安住して恥じない鉄面皮、懐疑も謙譲も失った傲慢さ。
吐き気がする、という感情を、ひさびさにたっぷり味わいました。

◇映画は、ドイツの原発をやめさせた人々の、線路に横たわって抗議行動をし、狂人とののしられた歴史なども紹介しています。
この映画が語っているのも訴えているのも、ただ放射能廃棄物だけの問題ではありません。
上に立つ人を「信頼」して、すべてをまかせてしまったら、普通の人間はどこまでもどこまでも、ふみにじられる。それは私たちだけでなく、他の生き物や未来まで危機にさらすことになる。

どうせまた、今度の選挙で投票しなかった人たちのためらいも、こういう人たちは「信頼された」「すべてを託された」と決めつけて、選挙後は反対意見も聞かぬまま、原発を再稼働する根拠にするのでしょう。投票日までも、それ以後も、私はあきらめる気はないですが、今からもう、いろいろ腹が立ってきています。

あ、そう言えば、同じテーマで「イエロー・ケーキ」というDVDも出てましたっけ。今度また借りて来ようかしらん。

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カツジ猫