大学入試物語14-あとがき

私が子どものころは、まだ受験競争もそれほど激しくなく、小中高とも田舎で当時は塾もなかったから、成績がいいとかなりヒマだった。だから、やたらとぼんやり、いろんなことを考えて、その結果私は世の中にも大人たちにも実に多くの不満を抱いていた。

私は昭和二十一年生まれで戦後っ子の一番手だから、子どものころから年上の世代に「戦争に行ったことのないやつに何ができるか」と言われて育った。家の中でも外でも男がいばり、女はなぐられていた。レイプの報道は被害者に責任があるように書かれ、ポルノまがいに描写され、レイプ犯は週刊誌で英雄扱いされていた。学校では体罰が日常化しており、動物は虐待され、私の家族も生まれた子猫を裏の川にどんどん投げ込んで殺していた。

それに比べて今の世の中は本当に暮らしやすくなったと私は思っている。戦争を知らない世代がもう定年を迎えて社会の大半を占めるようになり、動物や女性や子どもに対する扱いも昔よりずっとよくなった。バブルやいじめや格差や原発その他いろいろな問題も深刻化しているが、だからと言って「昔がよかった」などという気分には私はまったくなれないし、三丁目の夕日の時代なんかなつかしいとも何とも絶対に思えない。

私は家族も先生も好きだったが、そういう大好きな大人たちも含めて、身近な人たちにも、世間一般の知らない大人たちにも、政治家にも小説家にも知識人にも評論家にも、いろいろ文句や言いたいことが山ほどあった。
しかし、大抵のことは言うすべがなかったし、言っても効果がなかったし、私の言うことが正しいと認めても大人たちは「あなたも大人になったらわかる」「大人の世界ではそうはいかない」と言って無視した。
そして私を怒らせたのは、テレビドラマや映画や小説などの多くで、私と同じように世の中の不正に怒って抗議して反抗する若者の多くが、未熟でわがままで甘えていてひよわで、結局たたきのめされたり説得されたりして大人に負けて、時には涙ながらに反省して更生して成長して、よき成人となり社会人になって行くことだった。最後までそれを拒否した若者は、結局殺されたり自殺したり狂ったりして滅びて行った。
そういうものをくり返し見せられるたびに私は、自分の敗北と改心と未来を見せられるようで、腹立たしくていらついて、自分はそうなるものか絶対に滅びも負けもしないで勝ってやるぞと思ったものの、それらのドラマや映画や小説のどれを見ても、大人や世の中の力はあまりに強くて、あまり勝ち目はありそうになかった。

そんな中でいつからか私は、どんな大人も私が説得したり言うことを聞かせたりすることはできないとあきらめた。彼らは結局は裏切るし、妥協して私を捨てて、世の中に歩調を合わせると確信した。
ただ一人、私が説得し、洗脳し、私の味方にできる大人がいるとすれば、それは未来の私自身しかいないと思った。

いつからか私は、未来の自分に向って、今のこの気持ちを忘れるな、と何かのたびに語りかけ、念を押すようになっていた。このくやしさや、この悲しみ、この怒りを、絶対に大人になっても年をとってもどんなに強い立場になっても、一瞬も忘れてはならない。今のこの私を裏切り、忘れるような発言や行動を絶対にしてはならない。そう言い聞かせるようになった。
その一方で、もしも大人になり強くなり偉くなっても覚えていることができないようなら、その時になって「あのころは若かった」と笑って捨ててしまうようなら、そんな考えや怒りや悲しみは今も持つな、今捨てろ、と自分に言い聞かせるようにもなった。若いから、弱いから、甘えているから持つ考えなら、そんなものは持つ価値がない、今すぐ捨てると決めて、実行するようになった。

未来の自分を甘やかさないということは、現在の自分を甘やかさないということでもあった。それがどこまで成功したか、正しかったか、私を幸福にしたかはわからない。けれども、六十六歳になった今、ふりかえって、私は少なくとも若い幼いころの自分を、笑って大人の目で見下ろしたことはまだ多分一度もないとたしかに言えるような気がする。
むしろ、どんな時もいつも、彼女の鋭い目を背後に感じて生きてきた。どんな厳しい目上の人より、どんな反抗的な若者より、私は彼女の視線の方が怖かった。おかっぱ頭の、油っぽい団子鼻の、ひだのとれかけた制服のスーツを着た、太った、不機嫌な高校生の女の子・・・昔の私自身がじっと私を見ている、その目が。何度か彼女を裏切ったこともあったと思うのだが、彼女はまだ私を見放してはいないようだ。

もしかしたら死ぬまで私は彼女を、「あなたにはわからないのよ」と笑って見下すことはできないままになるのかもしれない。
私に、この「大学入試物語」を書かせたのも、結局のところは彼女である。

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カツジ猫