大学入試物語2-序章 コップの中の静寂

1 藪の中のドラゴン

今年(2012年1月)の大学センター入試で、ミスがやたら多かったと話題になっている。話題にはなったが、だからどうするという話でもなく誰の責任を追及するのでもなく、結局は「受験生の人生を決める」重要性をもっと認識してほしいというような、それも現場かセンターか政府か誰に対して言っているかもよくわからないようなあいまいなコメントのまま、新聞もテレビも今風に言えばスルーしていて、この問題にまともにとりくめば藪の中から大蛇かドラゴンが出てくるかもしれないことを、誰もが本能的に感じていて危険回避しているとしか私の目には映らない。

私は毎年この時期に、やれどこの大学で開始が数分遅れた、問題ミスがあった等の新聞記事が出るたびに、そんなことに目くじらたてる以前に、この制度の実態をもっとちゃんと調べてから言えと、口で言い、ブログでも書きまくってきた。今回の大規模なトラブルにもかかわらず、新聞テレビの報道が何だか及び腰なのが、その効果かなと思うのはさすがに自意識過剰だろう。しかし、毎年そういうことを言いつづけてきた責任と、少々は毎年同じことに同じように腹を立てる不毛さに疲れてきたのもあって、これ以後できたら死ぬまでもう、この件については発言しなくていいように、いっぺん徹底的に書きつくしておこうと決めた。

2 機密保持という閉鎖性

それにしても、なぜこのことについて、私の目から見たらいいかげんもいいとこの報道しかなされないのだろう。もしかしたら原発も基地も震災も事故も犯罪もすべてが当事者の目から見たらこんなもんで、適当なおざなりの上滑りな報道による情報しか私たちの目には入っていないのだろうかと思うと非常に恐いし落ち込むが、もちろんそんなことはあるまい。大学入試に関する報道は、他のことに比べて特にひどいのだと、せめて思いたいし、実際多分そうだろう。

その原因のひとつは、入試関係の情報は全国規模でも各大学でも最高の機密事項に属するから、内部告発も潜入取材もちゃんとやったら犯罪になりかねないから、実態が外部に漏れない、漏れてはならないことにある。

ときどき、新聞の報道で、現職の大学教員が取材を受けて、「自分の大学でも試験時間に本を読んでいる先生がいる」「居眠りしている人がいる」などと発言している記事がある。私はどっかの知事さんのように、自分の組織の批判をするような構成員は許さないという考えは持っていない。しかし、こういう発言をしている教員に対して、とっさに思うのは、あなたはそれを見ていて何の注意もしなかったのかということだ。たとえ若くても、窓際族でも、村八分になっていても、つまりその大学で何の力も発言権もない存在でも、それがまずいと思うなら、その場で「ちょっと、まずいっすよ」とささやくことぐらいやってもよかろう。それを何もしないでおいて、取材を受けて「こんなやつがいるんですよ~」と訴えるのは、どういう教育者で研究者なんだろうと、変な方向に興味がひた走ってしまう。

要するに、そういう私から見ると理解不能で不思議な人物の発言ぐらいしか、入試現場の状況が伝わらないという実態は、やはり何とかしなくてはならない。

機密保持について、もう少し言っておく。あとで詳しく述べるが、入試関係では全国的にも大学内でも、途方もない膨大なマニュアルが作られる。もっとも最近被災地で心身ともに消耗し苦しんでいる被災者に賠償をするのに上から落ちてきたら打撲傷で人が死ぬような厚さの手続き説明書を送りつけた電力会社のことを思えば、上には上がいるとか、ぜいたくは言っていられないとか、誤った悟りを開きそうにもなるが、とにかく、マニュアルにできるものは何でもマニュアルにしようとするのが、大学のみならず最近の傾向だ。

そんな中、この機密保持については、今のところマニュアルらしきものが作られていないのが逆に不思議だ。言い忘れたが私は一昨年の2010年3月に大学を定年退職した。だから、それ以後のことは知らないが、多分できていないだろう。強調しとくが、決して作ってほしいのではない。しかしこれほど重要なことでも、マニュアルなしでもやれてきたということを知っておいてはもらいたい。

試験問題の内容をしゃべるのなんか問題外の問題以前だが、入試問題を誰が担当したか、どこでいつ問題作成の会議を行ったか、実際の試験場の配置や移動の手順をどうするかなど、試験に関することはすべて学外はもちろん、学内でも口外してはならない。で、これも厳密にはそういった機密事項に属するのかもしれないが、このところ十年前後の以前から、大学は人手も金も逼迫なんてもんじゃないから、余分な人員はまったくおらず、従来は若かったり着任して間がなかったり専門分野が異なったり別の重要な職務内容があったりして入試には関わらないですんだ教員も、どんどん第一線の問題作成、入試業務に投入される。中にはそういう経験のない人ばかりのグループで作業にあたる場所も出てくる。

そうなると、これまでは、というより昔なら自然にいつの間にか常識として伝わってきていた、機密保持の感覚が継承されにくくなる。学生との飲み会で「僕たちの入試のときのあの問題作ったの、先生ですか~?」となつかれて、「あはは、そう思う~?」と笑ってかわし、複数の大学の教員どうしが、うちくつろいで、べろんべろんになるほど酔って、入試業務や試験当日に関する体験や見聞をさんざん笑い話にしながら、言ってはならないことは全員が、きちんと回避して絶対に漏らさず、ブログやサイトでさんざん入試の裏話をグチりながら、肝心のことはぼかしとおす、そういう精神と技術、なぜそれが必要かを誰に教えられたわけでもなく私たちは学んだが、これからそれがどうなるか。

まるでマニュアルを作れやと言っているようなものだが、それでも私はこれ以上マニュアルをふやしてほしくはない。なぜそうなのかは、あとでゆっくり述べる。

それに第一、このような機密保持の中には意味がなくなったものもある。その年の入試問題作成の担当者がわかってはならないという理由のひとつは、では来年はあの先生だろうと学生がローテーションを推測して問題を予測し、外部(家族や知人やバイト先の予備校など)に流してヤマを張らせる可能性を警戒することもあったろうが、今やどの先生も毎年入試を担当する大学、専門分野の教員が一人しかいない大学も多いだろうから、もはや初めから別に情報を得る必要もない。

3 持続しない関心

あと一つ、大学入試が社会的にきちんと問題にされないのは、当事者の受験生も家族も合格すれば、もうあまり受験制度に関することには関心がなくなるということだ。

私の大学では、全学合同の卒業式を体育館で行ったあと、各講座にわかれて簡単なお別れ会をし、各自への卒業証書もそこで渡していた。ところが体育館からキャンパスを横切って坂を上って、講座のお別れ会の教室に行くまでは普通に歩いても五分か十分はかかる上に、途中で他の講座の友人やサークルの後輩と別れを惜しんだりして晴れ着でしずしず歩いて来るから、講座の教員たちは会場で下手すると一時間近く待たされる。

ちゃんと、余裕もみて開催時間を設定し、周知徹底していてもそうで、まじめに時間を守ってきた者が待たされるし、例年担当の先生は苦労した。礼儀作法にやかましく学生を熱血指導することで有名な人気のあった先生などは、数回切れて、送別の祝辞そっちのけで晴れ着の学生たちに雷を落とし、説教したものだ。

何とかしなくちゃ、と講座会議で毎年話題になるのだが、難しいのは一生一度の卒業式だから体験が蓄積されることがない。いくら今年の卒業生を叱りつけても、来年はまた新しいメンバーなわけで、去年の例を教訓にできない。

私たちは結局三年生の有志を主催者に加えることで、最低二年にわたる卒業式指導をすることにして切り抜けた。

大学受験について考えるとき、この卒業式体験をよく思い出す。受験勉強も受験も合格も落第も入学も浪人も、強烈で貴重な体験だろうが、凝縮されて濃密な分、過ぎれば再び関わりはない。学生も家族も自分にとって終わってしまった制度や機構に、どう変わってほしいという意見は持ちつづけられない。ましてや、前に書いたように、自分が体験した入試さえも機密事項の壁があって教員と体験を共有して話し合うのには限界がある。

全国民の多くが体験する大学受験だが、終わってしまえばそれはもう、自分の人生にさほど影響を与えない。家族を持って親になって、子どもとともに受験を迎えれば、また問題は切実になるが、それもまた、過ぎれば過去のものとなり、就職や結婚が次の目標として迫ってくる中、大学受験制度のことなど本人も家族も気にしているいとまはない。多くの国民にとって、大学受験は本当に一過性で、年金のように常に心にかけていられる問題ではない。そもそも、どうやって気にかけていたらいいのか、方法もわからないし関わり方もわからないだろうから、なおさらだ。

テレビドラマなど見ていると、子どもの受験に必死になる家族(主として母親)が登場する。それは過度な競争意識や見当違いなわが子への期待といったこっけいな姿として批判的に描かれるのが大半だ。まあ、本当にそれだけわが子の受験に狂奔している母親がいるなら、そんな人たちはこんなドラマを見ているヒマはあるまいからいいようなものの、私はよくもこれだけ、ひとごとのような冷たさで、このような母親像を描けるなと毎回見ていて、白々とした思いにかられる。

受験に関する報道もだが、受験に関するドラマを見ても、実施する大学に対してと同様、受験生とその家族に切実に心をよりそわせ、愛情こめて親身になっている様子がない。結局、あまりまともに向き合わず、ほどほどに距離をおいて頭を冷やして何とかやりすごしましょうというアドバイスと、とおりいっぺんの「がんばって下さい」コールしか受験生と家族には与えられていない。

受験生もその親も、本当に孤独だと思う。戦いや努力とは孤独だ、という正しい意味ではなく、まちがった意味で孤独だと思う。何と戦っているのかどう戦っているのかもよくわからないままに、その時期を過ごして、終わってしまうから、過ぎればきっと思い出したくもないだろう。

ヘルマン・ヘッセ「車輪の下に」や久米正雄「受験生の手記」などの古典文学をあげるまでもなく、試験や受験そのものに、このような状況はつきものである。しかし、この何十年かの日本で、これはそういう一般的な不条理や不合理の水準を超えてしまっているように見えてしかたがない。

得体のしれないものとよくわからないままに戦った記憶など、思い出にもなりにくいし、他人にも伝えられない。自分たちがそこをくぐりぬけた後が今どうなっているかも関心は持てない。国民の大多数が鮮烈に体験しながら、その体験から得る教訓や反省はほとんど共有も蓄積も継承もされることがない。

機密保持と一過性。この二つが大学受験の問題を国民的な議論になりにくくしている。そして、その結果、誰が悪いということさえ明らかではないままに、大学受験制度はさまざまな問題をかかえつつ、途方もなく発展し複雑化した。

実のところ私は、この文章で何かを訴えるつもりは我ながらあきれるほど、まったくない。先にマニュアルのことでもふれたが、この状況を改善しようとすると、もう現場が負荷がかかりすぎて爆発する。

このままの状況でいいとはちっとも思わないし、放っておけばどうせろくなことにはなるまい。そのこともふくめて、とりあえず一人でも多くの人に、この現状を知っておいてほしいだけだ。たのむから、あわてて対策や対応に乗り出すのはやめてほしい。コップの底に沈殿している危険物質は、いつ満杯になるかわからないが、だからといってかきまぜると更にとんでもないことになる。こういうことになっているという不安を抱えつつ、その危険から目を離さず生きていていただきたいということだけが、今の私の願いである。

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カツジ猫