大学入試物語8-第四章 入試が大学を食い荒らす(3)
7 授業評価というまやかし
ひとつ言っておきたいのは、私がほめあげた「消費者のニーズに応える」という企業の姿勢を大学においては「学生の要望を聞く」ということと解釈しているらしい方針や政策がやたらと目につくことだ。
特に授業に対するアンケートを行なって教員の人気度、好感度も含めた点数を評価に反映させるのが最近では普通になりかけている。だからこそ、私も条件節をいっさい省いた極論を言うが、だいたい教育、特に知識や技能の伝達において、教育される側の希望や要望をとりいれるのは、根本からして自己矛盾だと思われませんか。今から学ぶ、自分が何も知らないことに対して、教え方がいいの悪いのどうしたらいいのああしたらいいのなんか、聞かれたって困るばっかりでしょうに。
大昔、私が学生だったころ、大学紛争が起こって「学生の意見をとりいれた授業をしろ」みたいなことがしきりに言われた。当時の私は自治会活動もしていたが、いわゆる全共闘やバリケード派ではなく、授業改革といった方面にはかなり消極的で懐疑的だった。
今でも覚えているが、そのころのあるコンパで、私が中村幸彦先生と白石悌三さんといっしょに話していて、ふと、つい、「私は学生が授業について要求を出すことには違和感がある。犬を訓練するときに、棒の大きさや投げる方向を犬は注文しはしない。教育とは基本的にそういうものではないだろうか」と言うと、中村先生はそれに反応されて、「私が・・・・するようにしたのは、・・・・ということがあったからだ」と述懐された。それに対して白石さんも「板坂さんが言ったその・・・・ということだけれど、・・・・という問題を私たちは考えないといけない」と応じられた。
で、その・・・・のところを私は覚えていないのだよね。わはははは。何ということでしょう。お二人はすでに故人になられて聞くよしもなく、第一聞いても覚えておられないかもしれない。
虫食いだらけの古文書のような、この私の記憶を再現すると、あくまでもニュアンスだが、お二人とも、ふだんは言えない、言う機会もない発想で、しかし常々感じておられたことを口にしておられたと思う。中村先生について言うと、先生は世の流れの趨勢であきらめて口を閉じられて、それまでの教育や授業の何かを黙ってやめられるか捨てられるか変えられるかしていて、その理由について語られたのだったという感じがする。私とちがって、その場でその言葉の意味を正確にとらえた白石さんもまた、その当時の雰囲気や流れの中では口にもできないままに消されつつある、大学や教育についてのある観点を、あえて、あらわに口にされたのだったと思う。
その後の議論の展開は、さらに私は覚えていない。何ともひどい、残念な話だ。だがそれは、どこかで今から私が話すことと関わる内容だったことだけはまちがいがない。
(とはいえ、ここで一言断っておくと、人の記憶はあてにならない。何しろ私は大学時代の学園祭のシンポジウムで中村・今井(源衛)両先生をお呼びして学生二十人ばかりで、文学の意味について討論したとき、司会をしたのだが、その時ひとりの学生がサルトルの「飢えて泣く子どもの前では文学は役に立たない」ということばを引用した後で、今井先生が「文学はその子どもの前で涙を流すことができるのです」と答えられた、と記憶していたら、同学年だった海老井悦子さんが、最近、九大女子学生の会の講演で、これを中村先生のことばとして紹介していたので腰が抜けた。
お二人の先生が別の場所で同じことを話されたということは、あまり考えられないので、私たち二人のどちらかの記憶違いなのだろう。私もたいがい嘘を覚えていることもあるので、あまり自信はないが、ただこの話を私はまだ若いころの授業ノートにも引用していて(ホームページ「板坂耀子研究室」の「授業ノートコーナー」の中の「文学は役にたちますか」)、まさかそんな若いころから記憶違いをしていたとも思えないが、絶対とは言えないし、結局のところ謎である。)
つまり教育というものは、一方通行であろうが対話形式であろうが、しょせんは教える側の裁量と計算と予定によって行なわれるもので、教えられる側と話し合って方法を決めるものではない。
サンデル教授の対話形式の授業がやたらともてはやされているが、あれにしたって、彼が考案し計画して実施している、ひとつの授業形態であって、そこには教える側の選択と意図が当然ある。あの講義の冒頭か途中に手を挙げて、「教授、このような方法では有益な教育的効果は得られないと思うので、やり方を変えませんか」と発言する人はいないし、いてもおそらく教授は受けつけないだろう。つまり、あの教室においては、あの方式と教授の姿勢に、受ける方が信頼して身をまかせているわけで、それは教授が一方的にしゃべりまくって質問さえもうけつけない授業と、その点ではまったく何の変わりもない。
別に私はサンデルさんの方式に文句があるわけではないし、あれはあれでもいいと思うが、ただ、やつあたり気味に言っておくと、これに限らず私がこのところの大学改革全般にわたって非常にすっきりしなくて気分が悪いのは、二重の基準とかどころではなく、まるっきり反対の方向が骨がらみにからまって実施されつつある気がして、いつも落ちつかないことである。サンデル方式がやたらともてはやされ、それに近いことをするのがいいということになって、そういう授業を要求されるのも、その一例だ。
要するに、いったい何が要求されているのか、さっぱりわからない。効率化と言われ、無駄をなくせと言う一方で、学生や社会には粉骨砕身サービスしろと言うのだが、無駄を承知で効率が悪いのを覚悟でするからサービスなのじゃないのだろうか。サンデル教授式の対話型授業なんか効率の点では最悪だ。教師の知っていること、考えていることをだ~っと時間のある限りしゃべりまくるのが、一番時間の無駄にならない。予習復習をして、それについて来れない学生は、どんどん脱落させるのが、一番時間の無駄にならない。実際どこかでそんな授業は、今でもきちんと行なわれているのではあるまいか。よくわからないがFBI職員の訓練とか。自衛隊の教育とか。クラシックバレーとか。そうでなければ、いくら何でも世界が崩壊しそうな気がする。
自分の学生時代を考えても、私は授業で教授と対話なんかしたくなかった。そんな時間は惜しいから、教授の知っている知識を時間いっぱい吐き出させ、しぼりとって帰りたかった。対話や討論は友人と下宿や喫茶店でやり、教授と飲み会や休憩時間にやった。自分が教える立場になっても、学生と毎晩遅くまで研究室でダベりまくり何度も徹夜し、授業では一方的に自分の知識をしゃべりまくった。その方が良心的な教育だと私は今でも考えている。
ついでにもう、これを読んでいる中には学生もいるかもしれないから、それもわかった上で、いくつか暴言を吐いておく。私だって「わかりやすい授業」や「対話型の授業」をした方が、しゃべる量は少なくてすむし、内容が薄くなる分、準備もしなくてすむし、まあ楽は楽でいいのだが、それでも時々しんから疲れるのは、「学生に発言させて下さい」「授業に参加させて下さい」とか毎時間の感想に書いてくるから、そうかよと思って質問したり意見を聞いたりすると、ろくすっぽ返事が返ったためしがない。あたりまえだが、私が知りたい、聞きたいことは学生はほぼ知らないのだ。つまり「質問して下さい」というのは「私にわかること、答えられることを質問して下さい」ということらしいが、自分が知っていることを言いにわざわざ授業料はらって授業を受けに来るのかよ。このへんの気分といおうか感覚といおうかが、私はまったく理解できないのだよ明智君。
ここで終わるのもあんまりだから、もう一つ付け加えよう。私はそもそも人生においても、できたら自分の生きた痕跡を何も残さず完全に他者の記憶から消えられたらどんなにいいかと感じている。自分の学問、社会活動などの結果は大いに残って世界や個人を幸福にしてほしいが、それを私がしたことは誰も覚えていないといいなあ。
授業や教育に関しても私が理想としているのは、まったくそれと同じことで、だから「あの先生はすばらしい」とか「あの授業は面白かった」というように語り伝えられるようでは、まだまだ名教師ではないと考えている。もう絶対に私にできるわけもないが、小中高でも大学でも、私が担当したクラスや授業では皆がどうしてか幸福で、いろんな知識がどんどん理解できてすばらしい発想がやまほど浮かんで、飛躍的になぜか成長できて、でもその原因は皆が自分自身にあると感じていて、私の教育や授業がよかったとかまるで思っていないし、「あの時の先生はえ~と誰だっけ」と誰ひとりとして思い出せない、というのが最高だ。
その年がすばらしくて、翌年になったら不幸だったりものたりなかったり淋しかったり実力が落ちたりしたら、「あの年だけどうしてあんなに、うまく行ったんだろう」と考えさせることになるから、それもいけない。私が担当したその一年に学んで身につけたことは、翌年もその翌年も生きてる限り持続して、いつそれを身につけたかさえ当人たちの記憶に残らないようでなければならない。
無理とはわかっていても、それをめざして私はこれでも毎年努力してきたのである。もうおわかりと思うが、そんな努力をしている人間にとって、授業評価ほど邪魔になり、私のめざす教育効果をそぐものはない。
私は授業において、便宜上自分に注目させるよう、いろいろ工夫をこらしもするが、それでも究極はいくら目立っても最終的には忘れられるということをめざしている。だから不必要に私や私の教育方法に注目させてはまずいのである。言わせてもらえば、私が何をめざし何を工夫して授業をしているかなど、学生ごときにわかるわけがない。わかるようでは教師ではあるまい、とさえ私は思っている。
つまり、いくら授業評価をしても学生に私の工夫や技術や心がけは絶対に理解できないし、わからない。しかしそれでも評価しろと紙を渡され記入をせまられれば、わからないままに学生は注目して、わかるわけのないことをわからないままに記入する。それはまったく空しいし、百害あって一利なしである。
そもそも、授業を受けるということは、くりかえすが、おのれを無にして知識を吸収することである。そこに全身全霊をそそぐよう、そそがせるよう配慮するのが教師の最高最大、最初で最後のつとめである。教育されている時に、その方法がいいかわるいか評価しろなどという負担と負荷を学習者にかけること自体、失礼だし残酷だ。評価という作業自体もバカにしている。教育されている片手間にできるような作業じゃないだろ、正確な評価なんぞというものは。
前にもどこかで書いた気がするが、だいたい、高級レストランでお客にアンケートをとるか。うまいかまずいか五段階で評価しようと思いながら食うめしほどまずいものはない。「今のどうだった?」と毎回聞かれる愛の行為も、決して楽しくないだろう。本当に心からサービスしたいと思うなら、相手の顔や反応ですべてくみ取る手間や努力を惜しんではなるまいよ。
言っておくが私は毎時間授業の感想を学生に書かせるが、「面白かった」と書かれても授業が成功とは思わない。「つまらなかった」と書かれても失敗したとは思わない。「よくわかった」と書かれても、それをまるごと信用はしない。「○○ということがよくわかりました」と書いてあって、その○○の部分は私が否定した見解だったりすることもよくあるから、安心などできるものか。そういう点では学生の感想はストレートには受け取るべきではない。あくまでもひとつの資料として、距離をおいて読まなくてはならない。
こんなのは、あたりまえのことだ。書いたらバカにされそうだ。作家の日記に幸福だとか不幸だとか好きだとか嫌いだとか書いてあるからと言って、それをうのみにして評論を書く研究者はいないだろう。だが、そのへんの感覚が「学生の授業評価」を利用したり信奉したりする風潮の中で、次第に狂って行くこともありそうなのは、まったくの杞憂だろうか。大学改革のあちこちで、こうやって研究や学問の本質にかかわることそのものが、微妙にひずみはじめているようでならないのだ。