大学入試物語4-第二章 「公平」という名の幻想
1 何かが消えてゆく
前章の最後に書いた、学生や受験生のことを思いやらずにはいられない、教師としてのDNAは、もちろん私にもある。どちらかというと私は学生に対して親切でサービスのいい教師と周囲から思われることも多くて、時には「どうして板坂先生はあんなに学生のことに親身になれるんだろうって、皆で話しているんですよ。きっとお子さんがいらっしゃらないからでしょうねって」などと、あきれてものが言えないほめことばをいただくこともある。
そういうことを言われると、あらためて自覚するが、私は学生をちっとも好きではないし、そう言うと卒業して教師になったばかりの教え子が「先生の気持ちがわかりました~」とか、うれしそうに言うので、バカかあんたがそんなこと考えるのは百年早いと、また腹が立つし、それはまあ口にも顔色にも出さないが、卒論指導の際には、「言っとくけど、あなたがたの誰が卒論を書けなくて留年しても、私はまったく困らない」と明言し、「あなたがたがもし、何か犯罪その他を犯して、教授会で処分が議論されたら私は絶対弁護しないで厳罰にして下さいと言うし、その前に私は学内で嫌われていて敵が多いから、私の指導学生というだけで、まず誰も寛大な処分を願ってはくれないだろうから、そのつもりで気をつけなさい」と言っている。こういうのは今でいうツンデレだと思う人もいるだろうが、必ずしもそうではない。そもそも学生がどうこう以前に、私はあまり人間が好きじゃないだろうなと思うこともある。
だから私が大学教員の中でどれだけ、教育者として愛情深い方なのかそうでないのかはわからない。だが、そんな私でさえも、一応はほとんど本能的に試験官として試験場に入れば、受験生のことは思いやる。現行の受験制度への好みや意見はさておいて、その制度で受験するしかない学生たちには、少しでも快適な環境で、充分な実力を発揮させてやりたいと心を砕かずにはいられない。
先に言ったマニュアルには、何時何分にはこう言え、何時何分にはこうしろと細かいスケジュールが書いてあるが、それだけではなく、こういう事態が万一起こったらどうしてこうして、とか、足音を立てるな音の出る装身具はつけるな打ち合わせもなるべくするな要するに受験生の集中力が乱れるような動作や態度はいっさいするなという注意が、ことこまかに書いてある。もうこれ以上どうやっても思いつけないだろうと思われるほど細かい注意の、さらにそこに書いてある以外のことを個人的に私はいくつも心がけていた。着る服の色から説明を読む声のトーンまで、受験生にとってもっとも快いのはどれかとまで、毎回真剣に考えていた。
しかしこの数年、そのような熱意や愛情が急激に薄らぎ消え始めた。マスメディアのあまりにも大学や大学教員の実態を知らない入試関係の報道ぶりや、もう何十年前に絶滅したかわからない「高い給料をもらって、優雅に研究室で自分の研究にばかりいそしんでいる、けっこうな身分の大学教授」というイメージで、すべてを図式化するずぼらさに、真剣にいらだちはじめ、毎年次第にぶあつくなるマニュアルの諸注意にも、こんなことが実際やれると思うのかと怒りが積りはじめた。
そんなことは受験生の罪ではないし、彼らにその怒りを向けるのはまちがいなのはわかっている。こんなことで、めっきがはげる私の教育者としての精神はしょせん、それだけのものだったということでもあるのだろう。
しかし、これだけ自分の研究はおろか教育さえもなげうって、入試のために受験生のために尽くしているのに、大学入試センターも報道機関も社会全体も、非現実なまでに細かい批判をしつづけ、過度な要求を次々によこしつづけ、そのすべてに「受験生のために」という錦の御旗をくっつけるのなら、もういいわかった、そっちのいうことだけ守っていたらいいのなら、自分がしている現場での努力など、もうすべてやめてもかまいませんかねという気分になってくるのは、やむをえない。
機密事項にふれるようなこともあるから、ごくごく小さな、言ってもさしさわりのないだろう例をひとつだけあげておく。
今年のトラブルのひとつに、ある大学で試験問題の配布が開始時間に間に合わなかったということがあった。その実際の状況がどんなものだったかは知らない。細かい報道もされなかったし責任の追及もなかったし、言ってみれば、そこまでしかない書きっぱなしの記事では、よっぽどずさんでアホな試験官がうかつなミスで受験生を苦しめたという印象しか、世間の印象には残るまい。まあどっちみち、くり返すが実態がわからないから、その大学の場合がどうだったかは私も知らない。
だが、次のような事実は、別に私がばらさなくても、受験生はもちろん、その場にいない誰でも多分推測できるだろう。
試験問題の冊子は例によって、全国一律で分秒もたがわず開始される。配布されて机上に冊子がのったまま、「開始」のベルが鳴って監督官が「解答始め」と言うまでは、受験生は閉じたままの問題冊子を見つめてじっと待っていなければならない。
当然ながら、問題配布開始から解答始めまでには、今回のようなミスが起こらないよう、充分な時間が設定されている。それでも大きな教室の百人近い受験生のいる試験場では、監督官が多く配置されているとはいえ、けっこう急いで配らないと今回のようなミスを招く。
しかし、よほどのことがなければ、普通はこれは間に合う。だから私が監督官なら大教室の大人数の場合は、それほど心配しない。むしろ気をつかうのは、二十人程度の少人数の教室の試験場の場合だ。百人の教室でも二十人の教室でも問題配布に設定されている時間は同じだから、普通に配布していたら、少人数の教室では大幅に時間が余ってしまうのだ。
ちなみに、何の行事でも催しでもそうだろうが、これだけ全国規模の私に言わせれば非常識なまでのスケールの大きなイベントでは、安全を期そうと思えば、まずあらゆる局面で、時間的余裕を確保しておこうということになり、かつ最も時間がかかりそうな個所に合わせて全体の予定が決められる。その結果、無駄に待たされる人数が増加し、かつ全体に要する時間がいやがうえにも間延びする水ぶくれ日程にならざるを得ない。
それでもミスが起こるよりはいいではないか、問題配布の場合なら、間に合わないよりいいではないか、と言われればそれはもちろんだ。しかし、問題が配布されてしまうと開始時刻まで試験官も受験生もすることがない。緊張のなか、どうかすると五分以上も黙ってそのまま全員が沈黙しつづけることになる。
試験も二日目になると試験場の空気も、かなりこなれて、やわらいで来る。一日目の二科目目でさえ、最初の一科目目に比べると、受験生たちがぐっとくつろいで来たのがよくわかる。だが、最初の一時間目の緊張感は教室中が本当に真空状態の氷漬けになったようで、そこで問題冊子の配布が終わってすぐ解答にかかれるのと、心臓の音が聞こえるような緊張感の中、五分以上も待つのとでは、ひょっとしたら開始時間が十秒二十秒遅れる以上に、一点二点の開きが出るのではないかと私は思うことがある。
それを少しでも軽減しようと、私は小さい教室で少人数の受験生の監督官になったときは、大きな教室とできるだけ同じ条件になるように、わざとゆっくりていねいに問題冊子を配布するよう心がけていた。あまり長い時間待つことなく、緊張感が高まる前に「解答はじめ」の声をかけられるように、自分なりに時間配分を工夫していた。
しかし、この数年、私はそれをやめた。受験生がどう長く待たされようが緊張しようがいっさいかまわず、とにかく早く配布してミスを誘発しないことだけを心がけてきた。ひそかな配慮が評価されないのと同様、マニュアルさえ守りミスさえ犯さなければ、思いやりのなさで批判や処罰をされることはないからだ。
これは人間としての堕落だとわかっている。それでも私はその道を選んだ。同様に、日常の業務の中で評価されず目に留まらない、ささやかな無償の配慮や思いやりを維持できなくなっている人たちは、大学入試に限らず、今の世の中きっと大勢いるだろうと思いながら。こうやって、国や社会は根元からスカスカになり、早晩崩壊するのだろうとあまり明るくない予想をしながら。
2 わかりすぎる反応
私がこんなことを書くと、何となく推測できるいやな展開が二つほどある。
まず、どこか上の方か横の方で、「なるほど、それは不公平だ。少人数の教室の受験生が待たないでいいように、開始時間を受験者数によってずらそう」と、また愚かなまでに手の込んだタイムスケジュールを工夫しはじめる動きが生まれるのではないかということだ。少なくとも、私が個人的にしていたような配慮を規則として、必ず心がけるようにとの注意書きをマニュアルに加えるということぐらいは、簡単で気軽にできる分、絶対に誰かがやりたがりそうだ。
言うまでもないが、そういうことはやめていただきたい。どう考えても百害あって一利なし、ろくな結果を招かない。
もうひとつは、これは多分受験生かその家族の声として、「そういう配慮をしてくれる先生がたまたま担当した試験場と、マニュアルに最低限書いてあることだけをする先生が担当した試験場とでは、受験生の運命がちがってくるだろう。不公平にならないよう、何とかしてほしい」という要望が出てきそうな気がする。
気持ちはわかるが、それもどうか、やめておいてほしい。
金をもらって試験問題を誰かに前もって教えるとか、自分の知っている受験生に有利になるよう意図的な工作をするとか、そういう許せない犯罪行為は決してあってはならないし、全力をあげて防止しなければならない。しかし、そういうのとはちがう、言ってみれば運のよしあしが生む不公平は人生のいたるところにつきもので、もうあきらめてもらうしかない。
と、このように私が言ったら、どれだけの人がどれだけの程度、激怒するのだろう? 最近の新聞やテレビの受験に関する報道を見ていると、開始時間の数秒の差、試験官の立てる物音、など、少々の差があってあたりまえと思えることでも絶対にあってはならない、許せないという常識が次第に生まれてきているようで本当に気味が悪い。
冷静にきっちりつきつめて考えれば、そんなことは不可能ということは明らかだから、とことん厳密さを要求するのでもなく、いわば漫然と適当に、そういうことを言いたてているようにしか見えないのが、またなおのこと無気味である。本当に真剣に完璧な公平性を追求しようとするのなら、それが不可能で狂気の沙汰であることぐらい、すぐ明らかになるだろうが、だらだらいいかげんに気まぐれに目くじらたてる風潮というのは一番始末が悪く危険だ。
そもそも私はヒヤリングをとりいれた試験を現行のようなかたちで実施しはじめた時点で、もうセンター試験は試験ではなくばくちとしか言いようのないものに正式になったと結論づけている。自分自身がブログで書き散らす以外、ほとんど何の抵抗もできなかったのだから他人に望む資格はないが、受験生はよくこれで何の反抗も抗議もしないものだと思うし、このような試験を許してしまっている自分も含めて、大人や社会は受験生をどこまで苦しめる、とかいう以前にどこまでバカにすれば気がすむのだろうと思う。
知っている人もいるだろうが、ヒヤリングは教室で各受験生に小さな機器が渡されて、それを耳につけて操作して問題を聞き解答する。こういう方法のすべてについて、いろいろ言いたいことは山ほどあるが、基本的なことをひとつだけ言う。
新聞その他で報道しているように、毎年絶対、その機器のいくつかには不具合が生じてその機器にあたった受験生は再試験を余儀なくされる。しかも翌日の試験がある第一日めのすべての試験が終了した遅い時刻にである。
私はもうこの事実のみで、それは試験とは認められない。機器の操作が誤っていなくても、受験生や監督官やその他の誰にも落ち度がなくても、はじめから、いくつかの機器は不良品であり、それにあたった受験生は再試験を受けるということが前提で行われる試験など、どう考えても試験という名に値しない。
不具合を生じる機器の数が毎年はんぱじゃないことも、それでずうずうしくこの形式を続ける、私を含めた主催者側の面の皮の厚さも相当なものだが、仮に機器の不良品が全国でたった一個であったとしても、その可能性が皆無と言い切れない限り、私はそういう危険性のある試験は実施してはならないと思う。手術の麻酔ミスによる死亡だって、患者に一応「文句は言いません」の念書をとらせる良心はあるのに、と言ったら、これからそういう誓約書を受験生に書かせようという話が出そうなのがブラックユーモアでなく実現しそうで恐いけど。
ヒヤリング能力の試験が必要かどうかということとは、これはまったく別の問題だ。そういう能力のチェックが必要なら、もっと別の方法を選択すべきだろう。
ただまあ、このことにこれだけ皆が一応平気なのを見ていると、試験というものには、そのくらいのずさんさや運不運はつきもので、しかたがないと、誰もがあきらめているとしか思えないのだが、その一方でやれ開始時刻が数秒遅れた、試験官の足音や話し声がうるさくて集中できなかった、試験時間に本を読んでいる試験官がいた、などと大騒ぎになるから、何が何だかわからなくなる。まだらボケならぬ、まだらチェック感覚という言葉でしか表現しようもない事態が普通にまかりとおっている。
ヒヤリング能力試験のあのおおらかさ、いいかげんさを認めるのなら、他のことの水準もそれにあわせてはどうか。
そもそも最初の方で私が書いた、緻密に一見見えていて、実はぬけぬけ、ゆるゆるの全国一斉入試の実態とはまさにここにある。試験に欠かせない公平性というものが、そもそものはじめから存在しないにひとしい。
完全な公平性など、あらゆる競技や勝負事には存在しないというのは私の持論で、大学入試ももちろんそうだが、それにしても、もちろんできる限りの公平さは保障するのが望ましい。
だが、規模が大きくなればなるほど、公平性は薄らいでゆく。それは当然のことである。
全国一斉大学入試の公平性など、誰が考えてもわかるが、実際にはないに等しい。それぞれの会場での環境の差、そこに行くまでの条件の差。学内の上等のカフェテリアで休憩時間をすごせる者、大学のすぐ前の喫茶店でくつろげる者、吹きさらしの渡り廊下で待機しなくてはならない者、自宅から行ける者、前日から泊りこむ者。受験会場での照明の明るさ、階段の多さ、暖房の効き方、雑音の多さ。それ以前のそもそもの家庭の貧富や出身地の雰囲気などはさておいて、当日のことだけに限っても、ありとあらゆる不公平と不条理の上に立ってセンター試験は行われている。
だから試験場の大学教員によって生じる不公平さなど、いちいち文句を言うななどと私は言っているのではない。これだけさまざまな不公平を背負って受験場に到達して着席している受験生全員に、せめてはその会場のその時間帯だけは、限りなく公平な環境を保障し、最大の実力をそれぞれに発揮させてやるのは試験官の義務だ。その使命感と情熱を持たない大学教員など、一人もいないだろうとさえ思う。それが充分ではなかったり不適当であったりしたとき、指摘し批判してもらうのは当然だし、ありがたいし、望ましい。
私が不快で当惑するのは、そういう指摘や批判の少なくとも私が目にするすべてが、「そもそもセンター試験というものは、根底からあらゆる点で不公平だらけのもので、決して公正なものではない」という、よく考えないでも自明のことをまるで忘れているとしか見えず、まるでガラス張りの無菌室の中で実施されているような、どこにも存在しない入学試験を、見えもしないのに見ているような錯覚に陥ったまま、その幻想だか妄想だかを前提に述べられているとしか思えないからだ。
私は、このような幻想や錯覚は、むしろ当事者の受験生や家族はリアルな現実を体感している分、持っていないのではないかと思う。彼らの苦しみにはむしろ無縁でひとごとの報道関係者や一般の方々が切実でない分、こういった錯覚をされている可能性がある。
とはいえ、そういう方々にしても最初に述べた通り、機密事項で取材しにくい限界の中ではやむをえないのだろう。こうやって考えていくほど、井上ひさしの戯曲「頭痛肩こり樋口一葉」に登場する気の毒な幽霊のように、誰を恨んでも責任者がわからず、祟るに祟れない袋小路に陥る。だが、ここはその対極にあるかのような松本清張「霧の旗」のヒロインのように、たとえ少々的外れでもやつあたりでも、とにかく恨みを晴らすことからしか何事も始まらないような気がするから、もうちょっとがんばってみよう。
3 毒を食らわば皿までで
そこで、読者の神経をさらに逆なでするのを承知で、試験場での大学教員がどんなことをしていたかということを、少し話しておきたい。これから私が話すことは、その時代時代の受験生なら皆見て知っていることだから、機密事項というほどのことではあるまい。
共通一次にせよセンター入試にせよ、最初の十年近くはまだ、今では考えられないほど、すべてがのんびりしていた。今のように開始以前に監督官全員が集まって、爆撃に行く空軍部隊のように電波時計で各自の時計の時刻を合わせることもしていなかったし、私も秒針のない腕時計(今ではこれは認められない)を使っていた。一分程度の時間のずれは誰も気にしていなかった。
今では受験生に聞こえる声の大きさでの会話は、たとえ事務的な打ち合わせでも禁じられているが、以前は世間話や試験制度への批評なども平気で受験生に聞こえるような声で話していた。本や雑誌を読むのもまったくとがめられなかった。実は私は今でもこれが何の害になるのかわからない。きちんと教室を見渡して監督をしろということなのだろうが、その一方で歩き回って受験生の邪魔をするなとも言われているから、ややこしい。
こんな昔の話を書くのは、それがよかったというのではなく、昔に戻せというのでもない。この制度が始まってから数十年の間に、いかに現場での管理や規則が厳しくなり、特に報道がこの季節になると風物詩のように受験会場でのミスを取り上げるようになってから、ここ数年その傾向が加速化しているのを実感してほしいからだ。そして、前章で述べたような、受験会場以外での不公平については、まったく考慮も注目もされないままになっていて、最近では存在しないことになってさえいるかのようなのにひきかえて、この病的なまでの受験会場に対する細かい指摘を、あらためて意識してほしいからだ。
細かい指摘と言いつつも、それはあくまでうわべだけで、事情や実態には完全に目をつぶっている。次にあげる例なども、もし事実だけが明らかになれば猛烈な非難の対象となるのだろう。
最初の時期の試験では、今とちがって1科目に要する時間が恐ろしく長く2時間近いものもあった。そんな時にはこれも今では考えられないが、複数の監督官は交互に休憩して試験場を離れていた。食堂に行ってお茶をのみ、研究室に帰って本を読んでいても、とがめられることはなかった。
言っておくが私たちがずさんだったわけではない。試験官として監督業務に携わっている時間内に、そうやって休憩してもそんなに身体が楽になるものでもないし、仕事が進むわけでもない。そもそも、そんな細切れ時間をいくらもらっても研究の役にはまずほとんど立たない。
こんなシフト制がひとりでに始まって定着してきたのは、現場の実感から生まれた必要性だった。
試験時間が数時間でも1時間たらずでも、共通するのは、一番試験官が多忙で緊張するのは最初と最後の数分であるということだ。最初は問題冊子の配布、受験票の写真と本人を見比べての確認、欠席者の確認、報告書への記入、その他もろもろミスの許されない作業に追われる。最後の方は解答用紙の回収と枚数確認という重大な作業がある。受験生に余分な負担を与えず、一刻も早く解答させ、終了後は解放するためには、確実で迅速な手際が要求される。短いがこの時間帯には人手はいくらでもほしい。
だが、最初の作業が一段落し、受験生が解答に集中してしまうと、教室は落ちついた静寂に包まれる。受験生も敵が見えない不安と緊張から解放されて、よく知っている戦いに参加している一種の穏やかな安堵感さえ漂っている。こうなると、気分が悪くなったりトイレに行きたくなったりして手を挙げる受験生や、消しゴムを落としたなどの小さいトラブルを見つけて対応するのと、カンニングなどの不正行為がないか注意する以外、監督官にはすることがない。
することがないだけではなく、いる場所もないのだ。大抵の受験会場となっている教室には、試験官の席など設けられていない。大学教員のほとんどは現職であるかぎり、どんなよれよれの年寄りでも九十分の授業時間は、立っていられる。だから、席がなくても座れなくてもかまわないが、実は立っている場所もない。大抵の教室は座席がフルに受験生のために使用されるから、教室の隅や教壇の上に立っているしかない。しかし、そういう空間は狭いし、歩き回るにも通路も狭く、往々にして受験生の荷物が机の下からはみ出している。無理して歩けば、それこそ受験生の邪魔になる。数年前から「あまり歩き回って受験生の集中力を乱さないように」という指示があってからは、なおのこと、どこかに立っているしかない。
だが、そうなると、受験生の誰かの後ろか横かまん前にじっと立っているしかない。それも受験生にとっては、かなりいやなはずだ。立たれた者とそうでない者の間に、それこそ不公平が生じるだろう。
だから、人手がいらない時間はなるべく不要な人員は外れた方が絶対にいいというのが、私たちが現場で学んだ感覚だった。交代で抜けるのは、その結果選んだ処置だった。
ちなみに、これも今では受験生のことなど考えていたら規則違反で処罰されかねないから、私たちは全員狭い空間に常駐し、誰か気の毒な受験生の側にずっとはりついていた。それと、先般の携帯電話を利用したカンニング事件以来、監督を徹底するために、歩き回るのはむしろ義務になり、試験官の足音は生活音とみなすという判断がされるようになったため、今ではこころおきなく机の間を歩き回れるようだ。
ところで、私がこんな話をうっかりしゃべった、ある若い職人の男性は信じられないといった顔で「本当に実力のある者を合格させようと思ったら、暑いか寒いかものすごく条件の悪いところで、騒音がんがん鳴らして机を横からがたがたゆすって、その中で解答させりゃいいんですよ。そんな甘やかした試験してるから、ろくな人材が育たないんだ」と吐き捨てた。まあ一理あるかもしれないが、それについては次章で述べよう。
また、こういうこともある。これも多分十年ほど前には、解答用紙のマークシートで、名前を書き忘れるか選択科目を塗りつぶし忘れるか何かそういう記入ミスをすると、採点不能ですべてがゼロになるようになっていたと記憶する。現在はこれは何らかの救済措置がとられるようになっていて、そこまで悲惨な結果にはならない。
で、その記入忘れが命取りになる大変な時期のことだが、当然受験生はそうなることを知っているし、高校でも予備校でも死ぬほど注意されているはずだし、もちろん私たちも解答開始直後にマニュアルの文句通りに「解答する科目を記入してください。記入していないと採点されませんから充分に気をつけて必ず記入して下さい」とか言っているのに、人間というものはある意味すごくて、一つの教室に絶対数人は、記入し忘れる受験生がいた。
注意をくり返すのはかまわないことになっていた。だから私は誰にということではなく、ただ念のため「大丈夫ですか」「もう一度いいます」と頭につけて同じ注意をくりかえすことはあった。厳密に言えば、そんな枕ことばをつけてはいけないのだが、「暖房が暑くないですか」「カーテンをしめますか」などと言うことはあるので、それと同程度の発言と私は考えるようにしていた。
だが、私と何度か同じ教室で監督をした、研究者としても教育者としても有能で、ついでに言うとその後学長にもなって立派に難局をのりきったから行政能力もあった先生は更にすごくて、私が注意を読みあげている間に、ささっと教室全体を巡回して戻ってきて、私の耳元で「もう一回読んで。三人、まだ記入してない」とささやくのだった。そして私がくり返して読むと、またさりげなく近づいてきて、「二人は書いた。あと一人はまだ気づいてない」とか言う。その後どうしたかは忘れたが、多分あとでまたくり返して注意を読んで、結局全員に記入させたのだろう。
私もその後は、教室を回って、書き忘れて空欄のままになっている受験生がいると、「もう一度よく見直して下さい。記入を忘れていませんか」と最後に近くする注意を、早めに数回行ったりした。しかし、これまた、時にはその受験生のすぐ横に立って言っているのに、本人は全然気がつかず、かわりに周囲の何人かがあわてて見直したりしていて、途方にくれたものだった。
そのことを何かの席で話すと、これも気骨があって筋をとおすが、やや自由奔放な別の先生が、あきれはてたように「何をそんなややこしいことやってるんだ、他の受験生にも迷惑だろうに。おれはそんな時は指でちょんちょんと、そいつの書き忘れてる欄のとこ、たたいてやるよ」とのたもうた。「それって、しちゃいけないんですよ」と私が悲鳴をあげると、彼はバカにしたようにふふんと鼻で笑い、彼がそれを実際にやっているのかどうか恐くて私は聞きそびれた。
しかし、彼がしたかもしれないことと、私がしていたことは、しょせん五十歩百歩かもしれない。いずれにせよ、そういう配慮をする教員とまったくしない、する余裕のない教員はどちらもきっと全国にいたはずだ。
注意をしてもらえなかった受験生にとっては、これは笑いごとではなく、許せない不公平、不正と言いたくなるかもしれない。しかし、先に述べたような利害がからむ悪意の不正とちがって、こういう運命の分かれ道は、人間がすることには必ず生じる、やむをえないことと私は思う。
これは最も極端な例だが、ここまで行かなくても、暖房の強さや陽射しのまぶしさ、空気のよどみを気にして対処してくれる試験官や、指示や注意を読みあげる声が小さかったり、言葉がわかりにくかったりでいらいらさせられる試験官や、隣りに座った受験生が貧乏ゆすりをしたり、鉛筆の音が高かったり、その他あらゆる不公平をすべてなくしてしまうことは、受験において不可能だ。
そういう、さまざますぎる要素を含んで全国一斉入試は実施されている。あえて私が言わなくても、まっとうな想像力がありさえすれば、誰にだって予測できるそんな事実を、最近の報道や社会はまったく忘れているかに見える。
本当に絶対にやってはならない不正がある。生じてはならない混乱がある。それをさけるためには、ある程度はしかたがない不公平や失敗は見逃し、目をつぶらなければならない。もともと、あらためて言うまでもない常識である、このような感覚が今の大学入試からは失われ、病的でヒステリックな潔癖症とも言うべきものに、とってかわられつつある。